民の文化で楽しい社会を、故・堺屋太一氏が願ったこと

北西 厚一
日経ビジネス記者
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00006/021200018/

 「団塊の世代」という言葉を世に送った作家、堺屋太一(本名・池口小太郎)氏が永眠についた。2月8日午後、多臓器不全のために東京都内の病院で死去。83歳だった。1970年大阪万博を提案、企画し、98~2000年までは経済企画庁長官も務めた。NHK大河ドラマの原作も手掛けた多才な人が最後まで唱えたのは「民の文化で『楽しい社会』を創ること」だった。

 1935年、大阪市で弁護士の息子として生まれた。明智光秀の娘、細川ガラシャが洗礼を受けたとされる教会の真向かいに実家があった。文化に造詣が深い家庭で「歌舞伎や文楽が身近だった」。中学1年の時に訪れた大阪・天王寺の復興博覧会に魅せられ、会場の建築設計に関心を持った。


 ボクシング部に所属して「バンカラをやった」という高校時代を経て、東京大学建築学部に進学。東京タワーができると聞き、夏休みの課題で3本足タワーの設計をした。コンピューターがない時代で構造計算に苦心。ただ、目を悪くして建築家を諦め、3年次に経済学部に編入した。最後に設計したのは地元・大阪の小学校に建てる劇場だったという。


 大卒後は通産省に入省。住友銀行、近畿日本鉄道と迷ったというが、当時付き合っていたドイツ人女性に「迷うのは何が好きか分かっていないからだ。何が好きか考えられるところにいけばいい」と諭され、転職先が多いように思えた通産省に決めた。

 

 この女性、エリザベートさんは堺屋氏の小説にも出てくる。予備校に通っていた時、いつも途中で電車に乗ってくるエリザベートさん。「あるとき横の席が空いたので腰掛けて思い切って話しかけたらうまくいった。その後、5~6年付き合った。生涯で思い出に残る女性は母、妻、エリザベートさんの3人だった」


 万博の発想は通産省の上司の一言がきっかけ。お見合い話を持ち込まれ「やりたいことがある」と苦しい言い訳で断った。上司の「一生懸命するのはいいことだ。例えば、万国博覧会とか、な」という言葉に応えるため「万博とは何か」を調べに図書館に出向いた。そして、万博の日本開催を提案。70年の大阪万博の企画も担った。


「大阪のいいところはいい加減なところ」

 

 大阪での開催にこだわったのは、64年に東京五輪があった東京への一極集中が進んでいたことへの危機感だった。「情報発信の場は2つあったほうがいい。政府方針とは違ったが、文化創造活動は大阪発がいいと考えた」。堺屋氏はこの時に唱えた東京と大阪を2つの焦点とする「楕円構造論」を後々まで口にする。


 小説家としてのデビュー作は「油断!」。石油危機に陥った日本を描いた近未来小説で、発行と同時期に石油ショックが起きた。「データを積み上げてその先を想像する。67年には石油消費量が資源の発見量を上回り、やがて資源枯渇になるだろうと考えた」。76年に書き上げた小説「団塊の世代」は世代を象徴する流行語となった。

 

評論家として活動した晩年、日本文化への観察眼はより深くなっていった。「東京の楽しさは多様性。いろんな人がいるから変わっていても目立たない」「大阪のいいところはいい加減なところ。よく言えば発想の自由だ」。街の個性はそれぞれで、それらを活かすことで「楽しい社会」が生まれるというのが持論だった。


 2025年の開催が決まった大阪万博については「第4次産業革命がテーマとなる」と語っていた。「今後さらに寿命が延びて生産性が向上すると、余暇時間が増える。人はその余暇に何ができるか」。一極集中は社会の効率性を生んだが、文化などを統制し、楽しさを衰退させた。だからこそ、楕円構造論を、というわけだ。


 「国民のエモーションが低下している。安全志向が強く、冒険する意欲がなくなっている」。高度成長期から時代の風潮を的確に表現してきた堺屋氏は、2年前のインタビューで、今の日本にこんな懸念を示し、言葉に力を込めた。「官僚主義もいいが、民の文化こそが大事。やっぱり楽しい社会やないとあきまへん。楽しくないと、結局、経済が回っていかないんですわ」


堺屋太一氏の遺言「2020年までに3度目の日本をつくれるか」

https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00015/021200001/
大竹 剛
日経ビジネス副編集長

 

 「団塊の世代」など時代を切り取る数多くのキーワードを生み出した作家の堺屋太一さんが2月8日、亡くなりました。83歳でした。堺屋さんは1960年に旧通商産業省(現経済産業省)に入省後、大阪万博や沖縄海洋博の企画などに関わりました。経済企画庁長官も務め、戦後経済のプランナーとして活躍しました。
 日経ビジネスは戦後70年の特別企画として2014年12月29日号の特集「遺言 日本の未来へ」で、戦後のリーダーたちが次代に遺す言葉を集めました。その中で堺屋さんは“遺言”として、「官僚主導の日本を壊し、『楽しい日本』をつくろう」というメッセージを託してくれました。
 インタビューで堺屋さんは戦後日本を振り返り、「敗戦で日本人のメンタリティーは、物量崇拝と経済効率礼賛に180度変わった」「欧米が文明を転換している間に、日本はひたすら規格大量生産を続け、それが一時の繁栄をもたらし、バブルとなって大崩壊した」と分析していました。
 堺屋さんをしのび、当時の記事を再掲載します。堺屋さんは、「3度目の日本」を目指そうと私たちに語りかけています。
 ご冥福をお祈りいたします。

 


 私は戦時中、大阪偕行社小学校という、陸軍の将校クラブ「偕行社」の附属小学校に通っていました。当然、その学校は軍隊教育が売り物で、体罰を交えながら帝国不敗という信念を叩き込まれました。陸軍の退役少将だった校長は、「我が大和民族は極東尚武の民であり、帝国軍人は忠勇無双である。よって我が陸海軍は無敵、不敗」と生徒たちに教え込んでいました。「我が1個師団は、米英の3個師団に対抗できる」――。そういう訓示を朝礼のたびにしておりました。


 私は昭和17年の4月に入学したものですから、毎日のように『軍艦マーチ』が鳴って、戦果とどろく臨時ニュースが入ってきていました。当然、日本が勝っている、と私たちは思っていました。


 ところが、だんだんと戦場が日本に近づいてくる。入学した時には南太平洋のはるかかなた、ガダルカナルで戦っていたのが、やがてラバウルになり、ソロモン諸島になり。ひょっとしたら日本は負けているのではないかと、小学校2年生の時にはそんな感じを持つようになっていました。

 

 やがて空襲警報が鳴るようになって、昭和20年の2月1日だったんですが、奈良県御所市に古い実家があったので、そこに疎開しようと考えている、と親父に連れられて校長先生に言いに行きました。そうしたら校長先生は、「おたくは8連隊の近所で帝国陸軍に守られているから大丈夫だ」と言うのです。それでも父は疎開させました。結局、6月1日の空襲で丸焼けになっちゃったんです。それでもしばらく焼けなかった間に、大八車で荷物を運べたのは有難かったと思います。

 終戦は疎開先の奈良県御所市の旧宅で迎えました。

 

「兵隊はアホやで」と大阪市民は冷めていた

 

終戦間際のことで、今でも記憶に鮮明に残っているのは、私の知る限り、大阪市内では反戦運動や停戦を求めるような動きは全くなかったということです。勝っている時にもちょうちん行列や旗行列もあった、という記憶はありません。
 大阪市民は冷めていたのかもしれませんね。もしくは、まあ、いい加減だったんでしょう。


 昭和19年、つまり敗戦の前年の11月か12月、学校で教えられた通りに町で出会った陸海軍の将校に挙手の敬礼をしていた時のことです。初めの頃は「行儀がいい」とか、「かわいい」とか言う声があったのに、その頃には「あの子ら何をやっているんね。アホやな。兵隊はアホやで」と、聞こえよがしに語る人が増えていました。

 

 だから、少なくとも大阪の中心街では、既に昭和19年の年末にはそういう雰囲気が漂っていたのです。負け戦を感じ始めていて、その感情を抑えきれなくなっていたのでしょう。

 

 その当時とはどんな時代だったかというと、B29が時々10機ほどの小編隊で、近所にあった砲兵工廠に爆弾を投下していました。まだ絨毯爆撃は始まっていませんでしたが、物資はどんどんなくなって食糧難になりかけていました。徴兵検査で不合格になった人まで徴兵されるような時代で、町では「贅沢は敵だ」ということで防空演習が盛んに行われていました。


 それで年が明けた3月、東京大空襲は3月1日ですが、大阪は13日に大空襲がありました。その頃からしゃかりきになって一億玉砕という人が出たんですが、私は疎開前の昭和20年1月、先生が「一億玉砕」ということを言い出したことを覚えています。私は一瞬考えて、「日本国民一億が玉砕したら、この戦争は負けではありませんか」と先生に聞いて、ぽかぽか殴られた記憶があります。

 

 

官僚システムの行き着いた先が「一億玉砕」だった


 私がこうした戦争中の経験から今に思うのは、なぜ一億玉砕が言い出されたのか。これが官僚システムの恐ろしいところだ、ということです。官僚というのは、消去法で可能性のある道だけを探る。要するに、この戦争は勝てない。しかし、日本は降参しない。そうすると玉砕よりほかはない。だから悪人でもアホでもない軍人や官僚が、真剣に一億玉砕だと言っていた。小学校の先生まで同じことを言い触れていた。

 

誰が考えても、一億玉砕したら日本は負けだということは分かっていたはずです。しかし、そういうことを言うと殴られる。それが、今の日本と非常によく似ている。


 官僚システムというのは、自分の官僚としての権限、立場、既定の方針などが変わらないことを前提としている。要するに、日本は降参しないということですね。それで勝てないとなったら、玉砕という選択しか残らない。それを当たり前のように吹聴して、それ以外のものを異端分子としてみんなで弾圧する。それを普通の官僚がみんなやるという官僚システムの恐ろしさを、子供心に思ったんですね。


 そういう私も大学を卒業すると官僚になりました。1960年のことです。その当時は成長一途でしたから、官僚の方針と日本の国益は一致していました。この状態が1980年まで続きます。私は幸いにも、その頃の日本の大事件にほとんど主体的に関わりました。

 

 大阪万国博覧会、沖縄復帰、石油ショック、阪神大震災の復興。小渕恵三内閣で経済企画庁長官をしていた時の大不況。戦後の大事件の多くに傍観者としてではなくて主体的に関われたことは、非常に幸せだったと思います。そして、私がやった仕事の多くは、官僚機構としては異端でした。例えば、万国博覧会を提唱するなんていうのは、大異端だったわけです。


佐藤栄作総理は「沖縄の人口を減らすな」と言った

 

 印象深かったことの1つに、沖縄復帰があります。私は沖縄復帰の日に、沖縄開発庁那覇事務所に通商産業部企画調整課長という肩書きで行き、そこで観光開発をやることになりました。


 1972年4月の初め、佐藤栄作さんに総理公邸でお目にかかった時に、「総理が取り返された沖縄はどうなったら成功なんですか」と、訊ねました。それに対して佐藤さんは、「人口を減らすな」とお答えになりました。


 当時、沖縄の人口は96万人でしたが、復帰後の15年間で約4割まで減少するだろうと言われていました。それは、地域コミュニティーがほとんど崩壊することを意味します。だから「沖縄復帰は悲劇である」というような論調もありました。


それに対して佐藤さんは、人口さえ減らなければ、それは喜んで住んでいることを意味するんだ。だから人口を減らすな。こういう話でした。


 それで沖縄へ行って、どうやって人口を保つかを考えました。その時、気がついたんです。戦後日本というのは、官僚が東京一極集中政策を猛烈な勢いでやっていたんですね。それで特に全国規模の頭脳活動、つまり、経済産業の中枢管理機能と情報発信と文化創造活動の3つは東京以外でしちゃいけない、ということになっていた。

 

官僚が進めた東京一極集中の弊害

 

 だから金融貿易は東京以外でしちゃいけない。大きな会社の本社も東京に置け。そのために各種業界団体の本部事務局は東京に置けと。つまり、沖縄での頭脳活動は一切ダメというわけですよ。地方は頭がないんだから、手足の機能に専念しろ。つまり、農業や製造業、建設業の現場になれ、というわけです。

 

その代わりに東京はお米を高く買い、建設補助金をばら撒き、公共事業を盛んにするという仕掛けにしていたんですね。


 そんな官僚が作った規制から外れているのは、観光業しかありません。それで沖縄で観光開発を打ち出し、海洋博覧会を契機に沖縄を訪れる観光客の数を10倍にしようという話を作ったんです。


 その時にお目にかかったのが、世界的な観光プロデューサーと言われたアラン・フォーバスというアメリカ人です。この人は、当時の日本で行われていた観光開発は全部間違っている、と言うんです。道路を造るとか、飛行場を造るとか、ホテルを建てるとかいうのは、これらは観光を支える施設ではあるが、観光の施設ではないと。


 じゃあ、観光に必要なものは何かというと、「あれがあるからそこへ行きたい」という“アトラクティブス”だと言うんです。それは6つの種類がある。ヒストリー、フィクション、リズム&テイスト、ガール&ギャンブル、サイトシーン、そしてショッピングだと。この6つの要素のうち3つそろえろと言うんですね。

 

沖縄の悲しい歴史にはあえて目をつむった

 

 それで結局、沖縄の観光開発では歴史にはあえて目をつむろうと考えました。当時、沖縄へ来る観光客のほとんどは「ひめゆりの塔」とか、「摩文仁の丘」とか、つまり戦争の悲しい歴史だった。それよりも、風光明媚を売ろうと。それで篠山紀信さんに撮影を頼んで、南沙織さんという若い歌手をモデルにして『美しき沖縄』という写真集を撮ったり、あるいはあえて批判精神に溢れる加藤登紀子さんや田端義夫さんに『西武門節』や『十九の春』という沖縄民謡を歌ってもらったり。そして最後に、沖縄は健康ランドというフィクションを流行らせた。プロ野球のキャンプは、その目玉です。

 

 それで、沖縄に来る観光客の数は復帰前年には24万人だったんですが、それを10年間で10倍の240万人、1000万泊にすることを目標に掲げた。結局、14年かかりましたが、その後も観光客は増え続けています。


 しかし、沖縄観光が成功する一方で、日本の青春もそこで終わったんです。


「団塊の世代」の警鐘、聞き入れられず


 そして石油ショックが来て、これで日本の青春が終わります。その後の10年を私は「紫雨の季節」と呼んでいるんです。温度は高いけれども、ロッキード事件が起こるなど何となく気色悪い。そんな時代が10年も続いたわけです。

 

 この間に日本は、新しい産業、経済社会体制を作るべきだった。だけど、その時はまだイケイケどんどんの香りが高かったから、政治的にはロッキード事件など気色悪いことがあったけれども、経済的にはみんなまっしぐらに規格大量生産を追求していました。


 日本万国博覧会の頃に、吉田寿三郎さんという厚労技官が来られて、戦後ベビーブーマーの問題が大変なことになると警鐘を鳴らされました。それを私は、「団塊の世代」と名付けたんですが、吉田さんは終戦直後に膨れ上がった人口がだんだんと年を取り重荷になるので、その時に備えなくてはならないとおっしゃっていた。しかし、それは当時の厚生労働省では完全に少数意見で、むしろ日本の最大の問題は人口過剰にあるという見方がまかり通っていた。


 従って、海浜や沼沢を干拓し、離島や山間に道路を造って、いかにして可住地を広げるか、これが最大の課題だと言っていたわけです。人口過剰に対応するために、何としても土地を作らないといけない。このためには公共事業をばんばんやるべきだというような考え方です。田中角栄さんはその代表でしょう。それが、その後のバブルに繋がっていくんですね。


 そもそも敗戦で日本人のメンタリティーは、物量崇拝と経済効率礼賛に180度変わっていました。戦争に負けたのは、アメリカの物量に負けたのだと。それが規格大量生産で高度成長を引っ張る原動力になっていました。

 

規格大量生産時代が終焉。しかし日本は変わらなかった


 実際、大阪万博は、日本が規格大量生産社会を実現したことを世界に知らしめた行事でした。1970年代は世界中がそうでした。しかし、その一方で70年代に世界の文明は転換します。きっかけは、ベトナム戦争でした。ベトナムで規格大量生産の武器で完全武装した米軍が、サンダルと腰弁当のベトコンに勝てなかった。なぜだということが盛んに議論されたんですね。その結論がまさに、規格大量生産の限界でした。アメリカで草の根運動や反戦運動が盛んになったのは、そうした文明の転換が背景にありました。


 20世紀の技術というのは、大型化と大量化と高速化、この3つだけを目指していたんです。それでジャンボジェット機ができて、50万トンのタンカー船ができて、5000立米の溶鉱炉ができた。まさに、あらゆる分野で最高速度、最大規模の製品が生まれたのが、70年代でした。そこが限界だったんです。


 それから以後、ジャンボジェットより大きな飛行機は、最近のエアバスの超大型機ぐらいまでありませんでしたし、50万トンのタンカーなんてもう造らなくなった。溶鉱炉も石油コンビナートも大きくなくなり、多様化の時代に文明が一気に変わったのです。


 ところが日本は、その後もまだ高速化、大型化を志向し続けた。アメリカやヨーロッパが文明を転換をしている間に、日本はひたすら規格大量生産を続けた。だがら、その間の80年代に輸出が猛烈に伸びたわけです。欧米と日本の文明のズレが、一時の繁栄をもたらしたんです。これが1つの日本の頂点、戦後の頂点ですが、それでそれが行き過ぎてバブルになって大崩壊した。


役人が国民の人生を決めてきた


 私は最近、「3度目の日本」ということを言っているんですよ。1度目の日本は明治日本。明治維新で誕生した、軍人と官僚が専制した日本です。この日本は、ただひたすら「強い日本」を目指していました。

 

2度目の日本というのは、戦後日本。これは「豊かな日本」を目指しました。規格大量生産で、官僚主導で東京一極集中、終身雇用、年功賃金。社会は核家族で住宅は小住宅・多部屋式。生まれたらすぐに教育を受けさせ、教育が終わったら直ちに就職。就職したら蓄財をして、その後で結婚して子供を産んで、家を買って、老後に備えるために年金を掛けろと。


 官僚が個人の人生設計まで全てを決めていました。それに従っていれば、それなりの中流になれた。いわゆるジャパニーズドリームですね。逆に、官僚が敷いたルートから外れると、とことん損をした。役人の言う通りに生きるのが良い国民で、それに反するのは悪い国民だと。だからニートとか、パラサイトとか、もう散々悪く言われるんですよ。


 官僚が作った人生設計に従うと、教育年限が延びるに従って結婚が遅くなるわけですよね。その結果、人口減少がものすごく速くなった。今、日本はなぜ人口が減少しているかというと、24歳以下の女性で子供を産む人が非常に少ない。アメリカは1000人の女性のうちで140人が24歳以下で子供を産むのに、日本は40人しか産まない。この差が今の日本の人口減少の最大の理由なんです。これはもう、全部役人が決めたんですね。


 頭脳活動に関わりたい人は、東京に住まなきゃいけない。地方では住めない。例えばマスコミであるとか、貿易関係であるとか、国際関係だとか、これは必ず東京へ来いというような、官僚の思うがままの日本をつくったわけです。一人ひとりの官僚はそんな大げさなことをしているつもりじゃないんだけど、全体としてはそういう官僚の意志が働いている。いわゆる、「大いなる凡庸」という状態になっている。

 

「楽しい日本」を目指し官僚システムを壊せ


 だから、今、日本がやらなきゃいけないのは、この官僚システムを壊すことです。
 官僚は皆、ものすごい正義感を持っている。ちょうど戦争中の軍人が中国に侵略することも、真珠湾を不意打ちすることも、正義感を持ってやっていたのと同じように。この官僚の制度を破壊するというのが、3度目の日本です。


 3度目の日本。それは、官僚制度ではなしに、本当の主権在民を実現する「楽しい日本」です。今、日本は「安全な日本」なんですよ。安全という意味では世界一安全です。だけど全然楽しくない。


 例えばお祭りをやろうとしても、リオのカーニバルなんかでは何人も死ぬんですよ。そんな行事がいっぱいある。アメリカの自動車レース「デイトナ500」なんかもそうでしょう。楽しみと安全とを天秤にかけて、多少は危険だけどこの楽しさは捨てられない、というのが外国にはあるんですよ。


 ところが日本は、どんなに楽しくても、少しでも危険があったらやめておけ、やめておけと、官僚が統制してしまう。それがマスコミや世間でも通っているんですよ。


 安全だけでいいなら、監獄に入ればいい。それでもみんな入りたがらないのは、監獄には幸福を追求する選択性がないからです。その意味で、今の日本はまるで監獄国家とも言えるほどです。その監獄国家から、幸福の追求ができる選択国家にしなきゃいけない。そうすると、ベンチャーを起こす冒険心も復活する。この官僚主導からいかにして逃れるかが、これからの2020年までの最大の問題なんですね。