2013年01月05日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第11回】
「自分は嫌われている」と初めて知った日の衝撃

「ガン無視」を続ける息子の異様な行動

この正月、年明けも早々に、僕は息子が取ったある行動に驚かされることになった。 

1月2日、僕の実家を訪ねるため、息子と電車に乗っていたときのことだ。車内は、混雑しているというほどではなかったが、晴れ着を着た若い女性たちや、有名なお寺や神社に初詣に行くらしい家族連れなどで席が埋まっていた。やむなく僕たちは並んで立ち、僕は左手で吊革に掴まって、右手で息子の手を握っていた。 

すると突然、斜め前の座席に座っていた、息子と同年代くらいの可愛い男の子がハッとしたように視線を上げ、こちらを見た。そして、息子に声をかけてきた。 

 「よう、奥村!」

男の子はニコニコして息子を見つめている。僕は隣に立つ息子に「学校の友達?」と聞いてみた。しかし、次の瞬間、息子は思わぬ行動を取った。 

男の子に横目でチラッと一瞥をくれただけで、後は視線を正面に戻してしまったのである。顔は完全に無表情。男の子に返事もしない。その後も、男の子は何度か、「奥村、どこに行くの?」などと声をかけてきたが、息子は一言も発しなかった。しまいには、プイッと横を向いてしまったのである。 

いわゆる「ガン無視」である。気の良さそうな男の子は、かわいそうに、はっきり動揺していた。それでも、「あれ、お、奥村だよね・・・」などと口ごもりながら、しきりに息子に声をかけてきた。息子はそれでも男の子の存在を黙殺し続けた。明らかに異様だった。 

そんな空気に耐えられなくなったのは僕の方だった。息子の代わりに、男の子に「うちの子と学校で同じクラスなのかな?」と話しかけてみた。すると男の子は「いいえ、水泳クラブで一緒なんです」と答え、自分の名前をハキハキとした口調で教えてくれた。小学生なのにきちんと自己紹介ができることに、僕はちょっと感心した。 

そういえば、息子は最近、水泳クラブに行き始めたと言っていたな・・・と僕は思い出した。そのクラブでできた友達(?)なのだろう。とてもしっかりした、感じの良い子供だった。きっと親御さんもきちんとした人たちなのだろうな、と僕は想像した。

いつもと違う呼び方をされたら、返事なんかしない

そんなふうに、自分の父親とクラブ仲間が脇で会話をしているのに、息子は横を向いたままだ。男の子とは目も合わせたくないといった雰囲気である。さすがに僕もむっとして、息子を叱ろうとしたが、ハッとして思いとどまった。 

息子のただならぬ様子を見て、僕はふと「これはASD(自閉症スペクトラム障害)に関わる症状に違いない」と気づいたのである。そのため、息子を叱責することも、男の子と話をするように促すこともしなかった。男の子が電車を降りるまで、ずっと僕が彼の話し相手になり続けた。 

やがて電車は、男の子が降りる駅に着いた。彼は息子に「じゃあな、奥村」と健気にも挨拶したが、息子に引き続き完全に無視され、悲しそうな表情で下車していった。 

男の子が見えなくなった後、僕は息子に尋ねてみた。 

喧嘩でもしたのか?」 水泳クラブの友達なんだろう?  「どうしてあの子に話しかけられても返事をしなかったんだ?

息子は表情を変えずに答えた。 

 「だって僕、水泳クラブで、『奥村』って言われたことがないんだもん。友達はみんな、いつも僕を『オク』って呼んでるんだよ」

僕は一瞬、息子の言っていることの意味がわからず、首をひねった。僕も息子と同じASDなのに、なぜいつも、彼の言葉の真意がすぐに理解できないのだろう・・・と少し悲しく思いながら。 

それでも、息子の思惑をあれこれ推測してみた。水泳クラブで、友達はいつも自分を「オク」と呼ぶ。だから、それ以外の呼ばれ方をした場合は、本名であっても、自分を呼んだことにはならない---。息子なりに、そういうルールを作ってしまっているのだろうか。 

僕が「水泳クラブでは、自分の呼び方を『オク』だけだと決めているのか?」と尋ねると、息子は小さく頷いた。「そういうこと。僕は水泳クラブで『オク』って呼ばれているんだから、クラブの人から『奥村』って呼ばれても困るよ。返事なんかしたくない。あのクラブでは、僕は絶対に『オク』なんだ」と答えるのだった。 

僕は驚きつつも、息子を諭そうと試みた。 

 「いいかい、君の名前は『奥村』なんだよ。お父さん、お祖父さん、さらにその先祖から伝わってきた立派な苗字じゃないか。水泳クラブの仲間に『オク』と呼ばれているのはわかるけど、『奥村』と呼ばれた場合も返事をしなきゃいけない。そうしないと、友達は無視されたと思って悲しくなってしまうよ」

こんなふうに説明しても、どうしても息子は納得できないようだった。「水泳クラブでは僕は『オク』なんだから、あいつだって、いつもみたいにそう呼べばいいじゃないか。今日だけ別の呼び方をするなんて、訳がわかなないよ」と、逆に食ってかかる始末だった。 

僕は息子への説得を諦めた。改めて、発達障害の人間が、発達障害と縁のない人間とコミュニケーションを取ることの難しさに思い至った。そして、同じ発達障害を持つ僕自身が、曲がりなりにも他人とコミュニケーションを取れるようになるまでの無数の苦い経験と試行錯誤を、いつか直接、息子に伝えなければならない---と痛切に実感したのである。 

自分の言動がなぜ他人の気に障るのか、まったくわからない

これまでも述べてきた通り、僕は子供の頃から、他人の気持ちを忖度(そんたく)したり、場の空気を読んだりすることができず、周囲との軋轢(あつれき)が絶えなかった。特に小学校時代にそれが顕著だった。 

そんな僕が、何とか他人とコミュニケーションを取れるようになったのには、一つのきっかけがあった。それは、高校時代の些細な出来事だった。いや、「些細な」というのは、あくまで客観的に見た場合で、僕にとってはあんなに重大かつ深刻な出来事はなかった。大きな衝撃と共に自分のコミュニケーション能力の欠如に気づき、それを克服するために、一人、努力を始めたのである。 

すると前方に、同じクラスの生徒が2人いるのに気がついた。SとYという、どちらも温和で楽しい性格で、同級生たちには概ね好かれている仲良しコンビだった。僕も、彼らと特別親しい訳ではなく、教室でときどき雑談するくらいだったが、何となく好感を持っていた。 

僕は彼らに近づいて話しかけようと思い、歩を速めた。2人は僕に気がついていない。いよいよ追いついて、「よう」と声をかけようとしたとき、彼らが話す声が耳に聞こえてきた。Sが腹立たしそうに他人をボロクソに酷評している。 

 「いつも気に障ることばかり言いやがって、本当にむかつくよ。これからは、あいつが話しかけてきても無視してやろうぜ」

 「そうだな。みんな頭に来てるしさ。俺らが無視すれば、あの野郎ももう話しかけてこねえだろう」

いぶかしく思っていると、Sが再び口を開いた。 Yも頷きながら同調する。温厚な2人がここまでネガティブな感情をあらわにするのは珍しい。彼らをそこまで怒らせているのは誰だろう? 

 「とにかく許せねえな、奥村のクソ野郎はよ。俺は本当にあいつが嫌いだ」

 「あいつを嫌ってる奴、すげえ多いぜ」

2人が延々と悪口を言っていたのは、僕のことだった。僕はその場で歩みを止め、2人に気づかれぬよう、とっさに近くの脇道に入ってしゃがみこんでしまった。再び立ち上がったのは30分くらい経ってからだったろうか。バス停に行くと、SとYは当然ながら前のバスに乗って帰った後で、姿が見えなかった。 

前回まで紹介してきたように、僕は小学校時代、先生からかなりひどい扱いを受けていたにもかかわらず、「自分が嫌われている」と認識したことが一度もなかった。だからこそ、高校1年のときに偶然聞いたSとYの発言は、大きなショックだった。僕はこのとき初めて、「自分は周囲から嫌われている」ということを知ったのである。 

当然、ひどく落ち込んだ。でも、どうすればいいのかわからなかった。なぜなら、僕の言動の中で、いったい何が彼らの(そして他の生徒たちの)気に障ったのか、皆目見当がつかなかったのだから。 

僕はその晩、「なぜそんなに嫌われているのだろう?」と自問自答しながら、鉛のような重い気持ちで、何時間もベッドに横たわって空中を見ていた。夜中になっても、眠気は一向に訪れなかった。 

「他人を喜ばせる言動を学ぼう」と決意

翌日から、とりあえず、「自分は嫌われているのだ」と認識した上で学校生活を送ってみることにした。すると、思い当たる節がいくつも出てきた。仲の良い友達だと思っていたNは、しばらく前から何だかよそよそしい。そもそも一学期の途中から、僕は学校から帰るとき、いつも一人だった。 

夏休みに、クラスメートからどこかに遊びに行こうと誘われたこともなかった。僕自身は、事前に立てた勉強やトレーニングの計画を消化するのに懸命で気がつかなかったが・・・。 

そう、僕は嫌われ、孤立していたのだ。その原因は、僕の言動が他の同級生たちを怒らせていることにあるようだった。 

その後しばらく、学校で一人ぼっちの時間を過ごしながら、「どうすればこの状況を打開できるのか?」と考え続けた。最大の問題は、自分の言動のどこが他人を傷つけているのか、さっぱりわからないことだった。それが把握できない限り、言動を直しようもない。 

そこで僕は、ある決心をした。同級生、特に人気者になっていたクラスメートの行動を観察して、「どういう言動が他人を不愉快にさせず、喜ばせるのか」を学習しようと考えたのである。これは我ながら良いアイディアだと思えた。 

観察し、学ぶべき対象として、野球部に所属するOに白羽の矢を立てた。Oの周りにはいつも友達が大勢いて、楽しそうにゲラゲラと談笑していた。かと言って、軽すぎる雰囲気も、不良っぽい雰囲気もなかった。Oを悪く言う同級生は一人もおらず、よく「Oっていい奴だよな」と評されていた。僕にとって、嫌われ者から卒業するのに、これ以上の"先生"はいなかった。 

僕はその後、数ヵ月にわたってOの言動を注視し、そこから学び続けた。Oを中心に級友の輪ができているときは、その輪に加わり、交わされる会話を懸命に聞き取った。ただし、自分からは発言しなかった(ここでまた嫌われたら、今度こそ元も子もないと思ったのだ)。Oが発する言葉と、その言葉に同級生がどんな反応をしているのかが知りたくてたまらなかった。バカバカしいと思われるかもしれないが、僕は必死だった。 

ルールは覚えたが、人の感情がわかるようになったわけではない

まもなく、Oの言動から、対人関係を良好に保つためには絶対に欠かせない、あるルールを見つけた。それは、普通の人なら当たり前かもしれないが、僕のようなASDの人間には、理解するのがとても難しいことだった。 

そのルールとは「他人とのコミュニケーションにおいては、決して本当のことを言ってはいけない場合がある」というものである。 

相手が自分に対して善意で何かをしてくれたにもかかわらず、「そんなことをしてもらうより、本当は別のことをしてくれた方がよかった」などと平気で言ってしまうのが、僕のようなASDの人間である。 

たとえば、僕のために料理を作ってくれた人に対して、「あまりおいしくないね。もっとあっさりした味つけにしてくれた方がよかった」などと言ってしまう。そうすると、相手は「せっかく作ってあげたのに何事だ」と腹を立てる。 

そういう場合、僕はなぜ正直に感想を言って怒られるのか、さっぱりわからなかった。でも、Oの言動を観察するうちに、僕は初めて「本当の思いを口に出すと、他人に嫌な思いをさせることがある。そういうときは、本当のことは言わない方がいい」という鉄則を学習することができた。 

他人の言動に対する評価や、自分の成し遂げたことに対する自己評価も、ほとんどの場合、本当の感想は言わない方がいいようだった。他人が自分のためにしてくれたことには、どんなに不満があっても、「ありがとう」と感謝の言葉だけを言っておけばいい。他人の言動に対しては、そもそも評価などしなければいい。そして、自分の成し遂げたことについては、どんな誇らしくても、多くの場合、自分から口に出さぬ方が無難---。そんなことを、僕はOのさわやかな言動から教えてもらったのである。 

それ以来、僕は表面上、自分の言動を百八十度、逆の方向に変えてみた。他人から話しかけられれば、どんな内容であっても、適当に相槌を打ちながら肯定しておく。自分から他人に話しかけることは最小限にする。口を開くと、とんでもないことを言ってしまいそうで、怖くなってきたのだ。同時に、Oから学んだルールに照らすと、自分がどんなにひどいことばかり言ってきたかがわかって、初めて愕然とした。 

でも、結局のところ、僕はOの言動を真似していただけで、本質的に他人の感情を理解できるようになった訳ではない。本当の自分を隠し、嫌われないようにひっそりと過ごすテクニックを覚えたに過ぎない。だから、「演じること」に慣れるまでは、学校から帰ると、心身にどっと疲労が押し寄せてくるのだった。 

今後も「演技」を続けていくしかない

逆に言うと、家に帰って家族の前にいる間だけ、本当の僕に戻れた。「勉強でわからない箇所がある」と嘆く弟に、「なぜこんな簡単なことがわからないんだ?」と遠慮なく聞いた。母には、「僕は本当のことを言うから学校で嫌われてしまったんだ」と、学校生活では決して明かせない本音を聞いてもらった。連日、1時間以上にわたって、速射砲のように母に本音をぶちまけた。 

前述したように、母は、僕のASD的な行動には極めて寛容だった。いつだって、うんうんと頷きながら、僕の話を辛抱強く聞いてくれた。あのとき、母にまで自分の言動を否定されていたら、僕は完全に内にこもってしまったに違いない。自室に引きこもり、誰とも会話をすることを拒否し、社会生活を営めない人間になっていた可能性が高い。今振り返ると、つくづくそう思う。 

そんな生活を送るようになって数ヵ月が経った。もう高校1年の三学期も終わろうとしていた。 

下校の帰り道、校門を出てバス停に向かって歩いていると、「おい、奥村」と後ろから話しかけられた。見ると、SとYの2人だった。夏休み明けのあの日とは逆のパターンだ。Sは笑いながらこう言った。 

 「お前、ずいぶん変わったな。本当はいい奴だったんだな」

僕も苦笑して「そうかな」と答えたが、心の中では「表面的な言動を変えるだけで、他人からの印象はこんなに変わるのか」と少なからず驚いていた。Sはこう続けた。 

そうしたらお前、ありがとうの一言もなしに、『このノート、字は汚くて読みにくいし、整理されてないし、授業がわかってないんじゃないか』って俺に言ったんだぜ。あのときは頭にきたけどさ、でも最近はお前もちゃんと礼が言えるようになってよかったよ。別人みたいだ。成長したんだな」  「一学期の数学の授業で、お前が気分悪くなって、保健室で寝ていたことがあっただろ。あのとき、俺のノートをコピーさせてやったのを覚えてるか?

続けてYも口を開いた。彼は、人気のラジオ番組を録音したカセットテープを僕に貸したら、やはり礼の言葉もなく、「音質が悪すぎるよ。すげえ古い安物で録音しているじゃねえの?」と言われて激怒したそうだ。僕は頭を掻きながら、「いやあ、つまらないことを言って悪かった」と2人に謝るしかなかった。そして心の中では、「今後も演じていくしかない」と覚悟を決めていた。 

結局、高校1年でのこのときの経験が、僕がテレビ制作マンを目指すきっかけとなったのだが、そのいきさつについては回を改めて述べていきたい。当時はただ、「これで何とか学校生活を続けていけるかもしれない」という安堵感に包まれていたのである。 

 

2013年01月12日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第12回】
新学期の初めに、必ず体調が悪化する理由

頭痛、発熱、吐き気を繰り返して

ここ数日、息子は朝、ベッドの中からなかなか出てこない。登校時間が近づいても、頭から布団をかぶってじっとしている。僕が様子を見にいくと、顔もろくに布団から出さず、モゴモゴした声で「今日は身体の調子が悪いんだよぉ・・・」などと訴えてくる。こんなことがしばらく続いているのだ。 

息子の"泣き言"はさまざまだ。「頭が痛いよ」と言うこともあれば、「熱があると思うんだ」とか「寒気がする」と言い出す日もある。今朝は「お腹がむかむかして気持ち悪い。吐くかも」だった。 

しかし僕は、息子のこの種のセリフに一切取り合わない。冷たいようだが、心を鬼にして、相手にしないことに決めている。なぜなら、息子がそう訴える理由を、僕は知っているからだ。 

冬休みが終わり、三学期が始まったこと。ズバリ、それしかない。 

息子は、小学校に入学して以来、同じことをずっと繰り返してきた。夏休みでも、春休みでも、あるいはゴールデンウィークでも、長い休暇の後は、必ず身体が不調だと言い出すのだ。登校前になると、頭が痛くなったり、気分が悪くなったり・・・。 

こう聞くと、「どうせ仮病だろう」と思う人もいるかもしれないが、そうではない。以前、新学年が始まって3日目に「熱があるみたい」と言い出したので、実際に体温を計ってみたら38度を超えていた、というケースもあった。もちろん、誇張していた日もあるかもしれないが、頭痛も寒気も吐き気も、本当に起こっていたと僕は考えている。 

息子の「長い休み明けの体調悪化」は、小学校に入学した頃からずっと続いている。一年生の頃は、「学校でいじめに遭っているのではないか?」と疑い、担任の先生にも相談してみたが、どう調べてもいじめの事実はなかったし、本人もきっぱりと否定した。 

息子は幸い、これまでクラス担任になった先生たちと、相性が悪いということもなかった。付いていけない授業がある訳でもない。ただただ長期休暇明けだけは、学校に行くのがつらく、しんどくてたまらなくなり、同時に、身体の具合も悪化してしまうのだ。 

 

人間関係を構築するストレス、「いい人」を演じる疲れ・・・

前にも述べたように、ASD(自閉症スペクトラム障害)を抱える息子と僕には、共通して苦手なことがいくつかある。その一つが、「家族以外の他者との間に人間関係を構築すること」だ。 

だから息子にとって、学校という場は居心地のいい場所であるはずがない。右を見ても左を見ても、人間関係を築くことの難しい他人ばかり。その中で毎日、数時間も一人で過ごすというのは、息子にとって、ものすごく大きなストレスになる。 

なぜそう断言できるかというと、僕がそうだったからだ。息子の気持ちは、本当によく理解できる。僕も、大勢の他人と毎日、同じ空間で何時間も過ごすことが、基本的に苦痛だった。 

そして、その重圧から、やはり長期の休み明けにはしばしば体調を崩した。発熱こそ少なかったが、頭痛や吐き気、だるさなどはよくあった。だから、息子が仮病を使っていないということがわかるのだ。 

僕の場合、小学校時代はそれほど、身体に「休み明けの異変」は生じなかった。むしろ中学、高校時代になってから、心身が息子とそっくりな状態に陥ったことが何度もあった。 

前回、高校1年生のときに、初めて「自分は周囲から嫌われている」と知って衝撃を受けたことを述べた。そして、必死で「嫌われ者から脱却しよう」として、「いい奴」と言われていたクラスメートを観察し、彼から「学習」し、その結果、かろうじて「いい人」を演じられるようになった経験も---。

そうやって、ある程度は「いい人」のふりをしながら学校生活を送るようになって間もない、高校1年の冬休み明けのことだった。そう、20年以上前の、ちょうど今の時期だ。正月気分も終わり、再び学校が始まる三学期の初めの日。 

僕は、今の息子と同じように、その日の朝、布団から起き上がることができなくなってしまった。ずきずきと猛烈な頭痛がしてきて、起き上がるどころか、ちょっと動いても頭が割れそうになったのだ。 

もちろん、その根底には、「学校に行くのが嫌で嫌でたまらない」という心理があるのは間違いなかった。そのフラストレーションが猛烈な頭痛を引き起こしたに違いない。それは、自分でも何となくわかっていた。 

僕は、学校で別にいじめを受けていた訳ではないし、先生に嫌われていたということもない。それどころか、冬休み前には、「本当のことでも絶対に口にしてはいけない場合がある」という人間関係の鉄則を"発見"したおかげで、同級生とのコミュニケーションに劇的な改善の兆しが見えていた。

にもかかわらず、僕は新学期の始まりの日に、やがてのしかかってくるのが間違いないストレスを思って、ひどい頭痛に襲われたのである。 

 

親戚の集まりでの、座を凍らせるような発言

その冬休みの間、僕は「本当の自分」でいることができた。 

僕はもともと、自分のことを話し出すと止まらなくなるタイプで、子供の頃から年末年始は、入れ替わり立ち替わりやってくる親戚の人たちを相手に、喋り倒すのが常だった。その年末年始も同じだった。僕は、親戚の人たちとの会話の中で、同級生なら決して看過してくれそうにない無神経なことや、座を凍らせるようなことを、何度も言っていたと思う。 

覚えているのは、上品な和菓子をお土産に持ってきた叔母に向かって、「僕、和菓子って嫌いなんだよね。おいしいと思ったことがないんだよ。ケーキの方が好きなんだけど」と言ったところ、叔母が急に無表情になったこと。 

また、「歴史の年号が全然暗記できないんだよ」と勉強の悩みを打ち明けた中学生の従弟に、「俺も中学のとき、隣の席に座っていた奴がまったく年号を暗記できなくてさ、みんなに『バカ』と呼ばれて笑われてたよ。俺もそいつのことをバカだと思ってた」と答えたことも覚えている。 

そのときの従弟の表情は忘れてしまったが、周りが誰も僕の発言をフォローして会話をつなげてくれなかったので、「何か不自然だな」と少しいぶかしく思った記憶がある。今にして思うと、座は凍っていたのかもしれない。叔母も従弟も、内心では腸が煮えくり返っていたのかもしれない。 

でも、表面上は皆、受け流してくれた(ように見えた)。だから僕は何のストレスも感じることなく、ひたすら自分の思いの丈を喋り続けることができた。本当の自分に戻れた解放感でいっぱいだった。 

 

しかし、冬休みの終わりと共に、僕が僕でいられる時間は終わってしまう。再び「いい人」を演じる学校生活に戻らなければならない。そう考えていたら、気分がどんどん鬱陶しくなり、頭が重くなって、布団から起き上がれなくなってしまったのだ。気がつくと、ズキン、ズキンと頭痛が始まり、痛みは少しずつ増していった。

心を鬼にして、息子の訴えをあえて無視

このとき、僕は結局、どうしたかというと---。 

 実は、何もしなかった。正確に言うと、何もできなかった。 

家族の誰一人として、僕の苦しみに取り合ってくれなかったからである。「頭が痛くてたまらないんだ」と訴えても、両親も弟も一言、「ふ~ん」で終わり。いつもは僕の発達障害に特有の言動に寛容な母も、このときは冷淡だった。 

 「じゃあ、学校を休んだら」などと言ってくれないのはもちろん、心配すらしてくれる様子もなく、淡々と朝食を食べていた。僕も、さすがに高校生になると、「学校に行きたくない」とストレートに言うのが何だか幼く思え、情けなくて、口に出せなかった。

そのため、僕は割れるような頭を抱えながら、ゆっくりと制服に着替え、グズグズと朝食を食べて、沈んだ気持ちで登校した。学校に着いたのはギリギリの時間で、遅刻はしなかった。 

ちなみに僕にとって、時間に遅れるというのは、身体を切り刻まれるのと同じくらい苦しいことだった。だから、絶対に遅刻だけはするつもりはなかった。「いい人を演じる」のもストレスがかかるが、遅刻の方がずっとつらい。遅刻するくらいなら、いい人を演じた方がましなのだ。 

僕は結局、三学期もその日から毎日、本当に心に思ったことはなるべく口に出さないように努め、学校で「いい人」のふりをし始めた。残酷な本心をポロリと口から出さぬよう、得意のマシンガントークを炸裂させぬよう、常に神経を張り巡らせていなければならず、非常に疲れた。 

しかし、一週間ほど経つと、そんな毎日にも、身体も心もいつのまにか慣れてきた。そして、春休みまでの2ヵ月半、学校生活を何とか送ることができた。その後、僕はこの「休み明けに体調が悪化する→再び学校生活に慣れて体調が回復し、いい人の演技を続ける」というパターンを繰り返して、高校の3年間を何とか乗り切った。 

だから、息子が今、布団の中からグズグズと窮状を訴えても、僕は心を鬼にして何も反応しない。放っておくだけだ。下手に相手をすると、さらに息子はおかしくなる。それを僕は経験で知っているのだ。

放っておけば、息子は必ず、不満そうな表情を浮かべながらも食卓につき、そのままいつもと変わらぬ量を食べ、渋々と登校の準備をし、暗い声で「行ってきます」と囁くように言って、登校していく。その日も実際、そうなった。 

出て行く息子に、僕は「行ってらっしゃい」と言って玄関から送り出した。その日、ようやく初めて彼にかけた言葉だ。そして玄関のドアを再びそっと開け、トボトボと歩いて学校に向かう息子の背中に、「頑張れよ」と心の中でエールを送った。 

仮病ではなく、本当に発熱してしまう

こういうとき、一番の禁物が、布団の中から出てこない息子に「頭痛なんて大したことはないんだから、学校に行きなさい」などと命じたり、叱責したりすることだ。以前、これをやって、大変なことになる。 

お父さん、僕が死んだっていいの?」と逆ギレし、後は僕は妻が何を言っても、そのまま布団から出てこようとしなかった。結局、本当に学校を休んでしまったのである。 息子は「頭がものすごく痛いんだよ! 

 「頭痛って、頭のどの辺がどのくらい痛いの?」などと聞くのは、さらによくない。そう言われると、息子は「もうちょっと具合が悪くなれば、学校を休めるかもしれない」と思い込む。すると、実際に身体の別の場所が痛くなったり、熱を出したりするのだ。

繰り返すが、これは仮病ではなく、本当に体調が悪化するのである。僕にも同じような経験があるからよくわかる。東洋医学で「心の状態と身体の健康は分けられない」というが、その通りだと思う。 

友人の娘に、やはり発達障害の小学生がいる。彼女は「嫌な授業」があるとき、よく発熱するのだという。それも授業直前、体温がなぜか決まって37度5分になり、赤い顔をして保健室に駆け込むというのだ。 

友人によれば、その子が「嫌だ」と言う授業には、いくつかの条件があるらしい。「宿題を忘れた」「忘れ物をした」「先生が口うるさい」「できなかったテストが返ってくる」・・・などなど。つまり、先生から注意されたり叱られたりしそうな(本人がそう思い込んでいるだけの可能性が高い)授業だということだ。そういう授業がある日、彼女はよく発熱してしまう。 

そして、彼女の場合も仮病ではない(発熱だから、体温を計れば仮病でないことはすぐわかる)。嫌な授業がある日になると、朝から「調子が悪い」などと言って熱を出して休んだり、あるいは登校しても、授業の前に熱を出す。 

友人は「仮病なら叱りつけるところなんだが、本当に熱が出てしまうんだ。ひょっとしたら、娘は熱を自由自在に出せるのかもしれない」と真顔で語っていた。 

普通の人には通じる理屈が、なぜか通じない

こうした現象も、医師によると、やはり発達障害に独特のものらしい。しかし、息子の行動については、かつて医師から強く忠告されたことがある。「息子さんがASDでも、決して嫌なことから逃げることを覚えさせてはいけません」と。 

特に、「嫌なこと=対人関係」である場合は、絶対に逃げさせてはいけないそうだ。僕の息子や友人の娘ように、普通の人なら「仕方がない」と思うくらいの人間関係の軋轢(あつれき)も苦しく感じるタイプであれば、なおさらだという。 

確かに、その程度のレベルの「嫌なこと」から逃げる癖をつけてしまうと、学生時代なら登校拒否になりやすい。社会人になってからは、少しでも合わない同僚や上司に遭遇したり、細かいミスを犯したりするたびに、出社できなくなってしまう。 

医師は具体的な事例を挙げて、注意すべき点を教えてくれた。たとえば、以下のようなケースである。 

ASDを持つ小学生の男の子が、道場に通って空手を習い始めた。きちんとした指導で評判の高い道場だった。そこの師範も、空手の技術が優れているだけでなく、人柄も穏やかで温かかったので、道場生やその父兄から慕われていた。 

男の子には天性の才能とセンスがあり、短期間でどんどん上達していった。突きも蹴りも教えるとすぐに覚え、軽々と使いこなすようになった。技の切れも身のこなしも同年代の中では抜群で、少年大会に出れば上位入賞は間違いなしと思われた。師範も、彼の将来性に大きな期待を寄せた。 

そのため、男の子が小学校高学年になった頃から、師範は指導法を変えた。それまでは自由放任でのびのびとやらせていたのが、一転して細かい点にチェックを入れ始め、ミスがあると大きな声で厳しく注意するようになったのだ。 

ある日、その子は明らかに稽古で手を抜いていた。上段蹴りの練習で、途中からエネルギーをセーブして、きちんと足を上げなかったのだ。師範はそれを見逃さず、「ちゃんと力と気合を入れて蹴りなさい!」と怒鳴った。 

すると次の日、男の子は稽古に来なかった。彼は親に「先生は僕のことが嫌いなんだ。だから練習中にひどいことを言うんだよ。僕はもう道場なんか行きたくない」と訴えて泣いていたのだ。 

この話の中で、医師が「注意すべき点」として指摘したのが、子供が「師範の厳しい指導」を「自分を嫌いだから」という理由に勝手に結びつけ、完全にそう思い込んでいる点である。ASDを抱える子供には「期待しているからこそ厳しい指導をする」といった、普通の人なら言わずもがなの理屈が通じないことが多いそうだ。そして勝手に、「自分が嫌いだから厳しくするのだ」という理屈をつけてしまうのだという。 

「君が好きだから、君に厳しくしたんだ」と論理的な説明を

実際、息子にもそうした傾向は非常に強い。妻が「この前の算数のテストで点が悪かったんだから、算数の問題集を一冊、最後までやりなさい」と言うと、 

お母さんは僕が嫌いだからそんなことを言うんだ」  「算数でも、僕には得意なところと得意じゃないところがあるじゃないか。一冊全部というと、得意なところもまたやれってことでしょ。そんなの時間の無駄だよ。どうしてそんなことをさせようとするの?

などと反応することもある。 

このように「空手の先生は僕が嫌いからひどいことを言うんだ」という事態になった場合、大切なのは論理性である。親はASDを抱える子供に対し、師範の意図を、一から論理的に伝えなければならないのだ。医師によると、親は以下のように説明し、その後も子供を道場に通わせるべきだという。 

 「君には空手の才能がある。先生はそれに気がついていて、君に非常に期待しているんだ。もっと指導をすれば、君はさらにうまくなると信じているし、実際、うまくなる。少年大会で優勝する可能性もある。だから先生は、君の実力をさらに伸ばしたくて仕方がない。

そう考えているときに、君が練習で手を抜いたように見えたから、先生はきちんと注意したんだよ。もし、君に才能がないのなら、仮に適当に手を抜いて練習していても、決して注意なんかしない。つまり先生は、君を『嫌い』どころか『大好き』なんだ。それで厳しくんだよ。だから、これからも道場に通って練習しよう」 

逆にこのとき、一番避けなければいけないのは、子供の勝手な思い込みを親が鵜呑みにして、道場を辞めさせてしまうことだ。その結果、「なるほど、こういう理屈を言えば、嫌なことや厳しいことから逃げられる」と子供が"学習"してしまう。以後、少しでも我慢しなければならないような事態に直面すると、「○○さんが僕を嫌っているから」という具合に、人間関係を理由に逃げてしまう癖がつくという。 

ただし、これにも注意が必要だ。本当に深刻な問題がある場合は、もちろん、そこから逃がしてあげる必要がある(たとえば、ひどいいじめに遭っているとか、本当に先生に嫌われて毎日罵倒されている場合など)。ASDを抱える子供を持つ親には、その違いを見極めることが、常に求められている。実際、僕も、ほとんど毎日のように、その判断を迫られている。 

・・・と偉そうなことを書いていた矢先、今朝も息子がやはり「お父さん、頭が痛いよ~」と言いながら、パソコンを打つ僕の近くにやってきた。訴えかけるような目でこちらを見つめ、今日はご丁寧にコホンコホンと可愛い咳までしている。ついさっきまですやすや寝ていたのに、「なんか熱があるかもしれない」と来た。本当かよ? 

でも、本当に発熱していたらどうしよう・・・。 熱を計ってみようか? う~む、今朝は、どうやって学校に行かせればいいんだろう? 

何だか、僕の頭が痛くなってきた。 

2013年01月19日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第13回】
『源氏物語』の暗記にチャレンジした受験生時代

英単語と英作文の参考書をすべて暗記してしまう

大学入試センター試験を間近に控えた今の時期。街では、受験生たちが背中を丸めて歩いている。

彼らの姿を目にするたびに、僕は、自分が大学受験に悪戦苦闘した昔のことを思い出してしまう。今にして思うと、そのときも、発達障害を抱える者ならではの苦労があった。 

僕が大学受験を意識し始めたのは、高校2年生も終わりに差しかかった頃だった。 

決して裕福とは言えない実家の経済状態を考えると、志望校は、地元の国立大学以外に考えられなかった。ところが、そこは、当時の僕の学力ではとても合格がおぼつかない"高嶺の花"だった。模擬試験を受けたとき、その大学に合格するのは非常に困難なレベルの低得点しか取れなかったのである。 

僕は落胆したが、くじけなかった。あれこれ考えた末、自分が持つ唯一の武器である、あの「フォトグラフィックメモリー」を駆使する勉強法を編み出した。そして、それを武器に、受験勉強に邁進しようと考えたのである。 

ただし、僕が考えたその勉強法は、後に同級生にその話をすると、「他の人間にはまったく参考にならないよ」と酷評された。今にして思うと、「他の人間」とは、「発達障害とは無縁の人間」という意味になるのだろうか。ただし、僕のように発達障害、それもASD(自閉症スペクトラム障害)を抱える受験生には、ひょっとしたら参考になるかもしれない。 

以下、そのやり方を紹介していくが、仮に読者のどなたかが実際にやってみて受験に失敗したり、志望校に合格できなかったりしても、僕には一切責任は取れない。そのつもりで読んでください。 

当時、僕が目標にした大学の入試は、文系か理系かにかかわらず、数学、英語、国語が必須科目だった。そして、理系学部を志望する者は理科系科目(物理や化学など)から2科目を、文系学部を志望する者は社会系科目(日本史や世界史など)から2科目を選んで、受験することになっていた。 

このうち英語については、すぐに勉強法を確立することができた。まず、英単語と英作文の参考書をそれぞれ2冊ずつ購入する。そして、そこに出ている単語と例文をすべて覚えてしまう---。そんな作戦を考えたのだ。「俺のフォトグラフィックメモリーの力を駆使すれば、それくらいは問題なくできるはずだ」と、そのときの僕は確信していた。

ヒアリングがまったくできない理由

実際、英語の勉強はもくろみ通り、順調に進んだ。2冊分の英単語と2冊分の例文を、僕はすべて頭に焼きつけた。いつものように、参考書を数ページずつ集中してじっと見つめ、何度か音読を繰り返せばいいだけだったので、困難はなかった。 

ところが一つ、大きな問題が生じた。それは、センター試験の英語である程度の配点を占める「ヒアリング」(現在は「リスニング」と呼ぶらしい)だった。僕は、耳で聞いた英語を理解することが極端に苦手だったのである。 

英単語集の内容はすべて脳に焼きつけ、完璧に覚えていた。その範囲内であれば、どの単語を見ても、瞬時に意味を答えることができた。ところが、同じ単語でも、耳で聞いた場合は、なぜか完璧に覚えたはずのスペルも意味も思い出せない。そもそも、どんな単語なのかがまったく聞き取れず、把握できないことも多い。 

文章の聞き取りでも同じだった。「英語の文章を読むときは、記憶している例文と照らしてすぐに意味が把握できるのに、なぜ、聞くと何もわからないのだろう」と、我ながら不思議だった。 

先日、医師のカウンセリングを受けたとき、ふと、この大学受験当時のことを思い出し、打ち明けてみた。すると、医師からは意外な理由を指摘された。 

この連載の第6回「僕が絶対に記憶できないこと」でも述べたように、僕は好きな歌を聴いても、絶対に歌詞が覚えられない。英語のヒアリングをするときも、おそらく同じ症状が脳内で起きていただろうというのだ。 

僕の絶対的な記憶力も、その多くは視覚に頼るものだ。逆に、聴覚で情報を得てそれを記憶したり、視覚経由の情報に関連させたりする能力は、医師によると、平均よりかなり劣っているという。だから、参考書に出てくる単語の意味やスペル、例文などをどれだけ完璧に脳にプリントしても、耳で聞いた情報をそれらに結びつけることができなかったのだろう---。それが医師の説明だった。 

そう言われると、受験勉強の英語のヒアリングで、聞いた単語の意味が思い出せなかったときの苛立ちと焦燥は、さらにその前にも味わったような気がした。しばらく考えて、医師の前で「そうだ、あれだ!」と僕は膝を打った。 

中学時代、クラスメートとサザンオールスターズの『いとしのエリー』の話になり、ふと内心で、歌詞を思い出そうとしたことがあった。ところが、頭には一言半句も浮かび上がってこない。愕然として必死で記憶をたどったが、まったくの無駄だった。そのときの焦りまくった感覚とよく似ていたのだ。 

僕はしばらくの間、英語のテープを聞くなどの努力を重ねたが、一向に効果は上がらなかった。耳から入ってきた音声は、僕の中で何も形を結ばないのだ。 

今考えると、発達障害があるから仕方がないのかもしれないが、当時、そんなことはわからない。僕は結局、英語のヒアリング問題については諦めて、他の部分で少しでも点を稼ごうと決めたのである。 

とんでもない行動の意外な結果

それでも、英語はまだよかった。最大の難関は国語だった。 

これまでも述べてきたように、ASDを抱える僕は、他人の気持ちを理解するのが苦手(正確に言えば、ほとんど不可能)である。だから、現代文の試験で「このときの主人公の気持ちを○○字以内で述べよ」といった問題が出されると、お手上げになってしまう。 

目の前にいる人の気持ちさえわからない僕のような人間に、物語の登場人物の気持ちがわかるはずもない。だから、「誰々の気持ちを説明せよ」の類の問題にはお手上げになってしまう。何かうまい対処の方法はないものか・・・。 

そんなことに悩んでいたある日、僕に転機が訪れた。高校3年生の秋、マークシート形式の模擬試験を受けたときのことだ。 

国語の試験に対し、僕はまったくモチベーションが上がらなかった。問題はどれもちんぷんかんぷんで、選択肢のどれもが正しいように見えるものばかりだった。思わず、全部投げ出して帰りたくなったが、まだ終了までの時間は十分に余っていた。 

僕は「どうせ国語なんてわからねえんだ」と、次第に自暴自棄な気分になっていった。そして、今考えると、とんでもない行動に出た。すべての問題について、「これは正解ではないだろう」と考えた選択肢のマークシートを塗りつぶしていったのだ。

すると1ヵ月後、意外な結果が出た。何と、満点だったのだ。 

嘘だろうと思われるかもしれないが、誓って嘘ではない。とっくに試験結果の通知も捨ててしまい、今となっては証明する術がないのが残念だが、周囲の人間たちも、そして何よりも僕自身が「苦手な国語で満点!?」と仰天していたのだ。 

僕は、生まれて初めて経験する国語試験の全問正解という結果を前に、ある決意を固めていた。「本番もこの方法で行くしかない」と、やぶれかぶれで考えたのだ。「正解だと思えないものを選ぶ」というやり方なら、ただでさえ理解できない国語という科目を勉強する必要もない(漢字はもちろん、できる限り暗記していたが)。それが何より助かると考えた。 

ナンバープレートの数字で、すぐ計算式を作ってしまう

国語とは反対に、一つだけ、子供の頃から高校時代までずっと好きだった科目があった。数学である。 

数学が好きだった理由は簡単だ。数学ならば、教科書を見ても、参考書を見ても、そしてテストの問題を見ても、いたるところに「数字」が溢れていたからである。 

僕は物心ついた頃から、数字へのこだわりが強かった。前にも述べた、歌謡曲番組『ザ・ベストテン』の毎週の各種ランキングや、ギネスブックに載っている記録などは、一度だけ見れば、自然と数字が記憶に完璧に刷り込まれた。言葉や文章を暗記するときのように、「3回、大きな声を出して読む」という作業をする必要はなかった。 

また、小学校の低学年で四則演算をマスターした後は、街中で数字を見かけるたびに、自然と、頭の中でパズルのようなことを始めるようになった。車で家族旅行に行くときなど、僕はいつも両親に頼んで、助手席に座らせてもらった。前を走る車のナンバープレートを凝視するためだ。「ナンバープレートに並ぶ数字を、どのように足したり引いたり掛けたり割ったりすれば10になるか」を考えていたのだ。 

たとえば、今でも覚えているのが、僕たち家族の車の前に、ナンバープレートの上下に数字が「 330 7264」と並ぶ車が走っていたときのことだ。僕はゼロを使用せず、次のように計算して、答えを10にすることができた。

〔{3×3+(6÷2)}÷4〕+7=10

 

しょっちゅう同じようなことばかりやっていたのに、なぜこの計算だけを今もはっきり記憶しているのかというと、普段より短時間、確か数秒くらいでできたからである。実に気分が良く、一種の解放感に似た感覚が全身を駆け巡った。僕は当時、小学校2年生か3年生だったろうか。

子供時代の僕にとって、車に乗るときの楽しみは、スピードを出して高速道路を走ることでも、景色を眺めることでもなく、この計算だけだった。親に「富士山がきれいね」と言われても返事をせず、もちろん富士山には一瞬たりとも目をやらず、ずっと前の車のナンバープレートを見つめ、頭の中で一心不乱に計算式を作っていた。 

そして、その数字をすべて使って答えが10になる式が出来上がると、何とも言えない幸福感が訪れるのだった。両親は当時、助手席で何も喋らず、ときどきニヤニヤ笑っている僕を少し気味悪く思っていたようだが、本当に嬉しくてたまらなかったのだから仕方ない。 

制御不能な怒りがこみ上げてくるとき

中学校に入ってからは、四則演算に√(ルート=平方根)も加えて、車のナンバープレートの数字で計算式を考えるようになった。高校時代には、数字を見た途端、不足数(ある自然数で、その数自身を除いたすべての約数の和が元の数より小さいもの)なのか、過剰数(ある自然数で、その数自身を除いたすべての約数の和が元の数より大きいもの)なのかを考え始めるのが癖になった。ほとんど"数字中毒"というか、病みつきである。 

高校生になっても、相変わらず車の助手席に乗りたがった。ある日、当時小学校に入ったばかりの親戚の男の子が、僕たち一家の車に乗ったことがある。彼は助手席に座りたがったが、僕は「おい、そこは俺が座るんだよ!」と怒鳴りつけて強引に助手席に乗り込んだ。男の子はびっくりして泣きそうな表情になっていたが、僕は無視した。 

冷静に考えると、高校生が小学生を相手にやることではない。幼くみっともない行為だと批判されても仕方がない。もちろん、それは理屈では当時もわかっていた。 

しかし、他の車のナンバープレートを見られる楽しみが突然奪われると思うと、僕の中には制御不能な怒りがこみ上げてくるのだった。もし今、同じ状況に置かれたら、僕は今度こそ自分を抑えられるかどうか、自信がない。 

困ったのが、学生時代に運転免許を取り、自分で運転するようになった後だった。ハンドルを握りながら、どうしても前を走る車のナンバープレートばかりを見てしまう。しかし、あまりにも危険なので、「運転中は絶対に他の車のナンバープレートは見ない」と固く決意し、今も守っている。 

しかし、妻に運転を任せて自分が助手席に座っている間は、とにかく他の車のナンバープレートを見まくっている。まさに至福の時間である。街中を歩いていて横を車が通り過ぎると、やはり視線はすぐにナンバープレートに吸い寄せられ、頭の中で計算を始めてしまう。そんなとき、一緒に歩いている息子が話しかけてきても、完全に上の空だ。子供の頃と、やっていることがまったく変わっていない。 

数学の問題に取り組んで、正解を得る瞬間が僕は大好きだった。一つの問題を何時間も考えてたどり着いた、たった一つの正しい答え。国語の問題のような曖昧な答えなど、数学では絶対にあり得ない。 

数学で正解を発見したときの感覚は、たとえて言うと、まったく無駄な時間を使わずに移動できたときの気持ち良さに似ていた。駅の改札を抜けてホームに着いた瞬間、電車が入ってきて、待ち時間ゼロで乗り込むことができ、その後もすべてスムーズに乗り換えて、予定時刻にピタリと目的地に到着できたときの感覚---。あるいは、難解きわまりないジグソーパズルに挑戦して、最後のピースがはまったときの快感にも近かった。 

図形問題の解法を脳に焼きつけていく

ただし、数学についても、僕には一つ問題があった。 

 「数字」を分解したり、「数式」の性質を考えたりすることは好きだったが、「図形」の問題、いわゆる幾何にはさっぱり興味が持てなかったのだ。まぁ、図形の問題には数字があまり多く出てこないのだから仕方がない。

よく「数学が好き」と言うと、数学のどの分野もおしなべてできるように思われがちだが、そうとは限らない。僕のような例外もいるのだ。 

しかし、大学入試の数学に図形問題は必須である。そこで僕は、高校3年生の夏、やはり一つの決心をした。図書館で図形の問題集を借り、載っている解法をすべて暗記し、それらを組み合わせて問題を解いていこうと考えたのだ。「得意の記憶力を最大限に生かして、苦手分野の克服に乗り出そう」と決めたのである。 

僕の記憶力をもってすれば、解法をすべて記憶すること自体は可能だと思われた。困るのは、あまりにも時間がかかりすぎることだった。他の科目を勉強する時間が大きく圧迫されるのは間違いない。しかし、得点源の数学で良い点数を取るには、やるしかない勉強法だった。 

こうして、記憶力に全面的に頼る奇妙な受験勉強が始まった。 

僕は「思い切ってやるしかない」と腹をくくり、毎日、英単語や図形の証明問題などを大声で繰り返し暗唱し、どんどん脳に焼きつけていった。この作業は順調に進んだが、いかんせん時間がない。夏休みなど、それこそ早朝から深夜まで、ぶっ通しで暗唱と脳への刷り込みを続けた。

暗記には自信があった僕の脳も、酷使が過ぎ、さすがにパンクしそうになった。あるとき、1日に覚えられる記憶容量を超えてしまったのか、突然、熱が出て、何を読んでも頭に入らなくなった。母は笑いながら「本当に機械みたいな脳だね」と言って手当をしてくれた。翌日、熱が下がると、また以前のように、いろいろなことを記憶できるようになった。 

夏が終わり、秋も過ぎた頃、僕は英単語も英熟語も、英作文の例文も、数学の図形の証明問題の解法も、すべて覚えてしまった。しかし、模擬試験の成績は思うように上がらなかった。志望校の合格圏内まで、数十点ほど足りない状態が続いていた。 

僕の成績の足を引っ張るのは、いつも国語だった。選択問題では、「間違いだと思うものを選ぶ作戦」がある程度の成果を挙げていた。しかし、記述問題となると、もうお手上げだった。「○○字以内で述べよ」といった問題では、さっぱり点が稼げなかったのだ。 

古文や漢文はもっとひどかった。両方とも中学生の頃からまったく興味がなく、ろくに勉強したこともない。そのため、基礎的な知識が身についておらず、高校時代も「今さらやっても遅すぎる」と考えて、手もつけていなかった。誇張ではなく、古文も漢文も0点に近いレベル。もう、どうしていいかわからなかった。 

原文を見た瞬間、訳文がすらすら書けるレベルに

そんな高校3年生の冬のある日、同級生のMが僕にアドバイスしてくれた。Mは中学生の頃、僕のフォトグラフィックメモリーの力(第5回参照)を目の当たりにして驚いたクラスメートの1人で、その後、同じ高校に進学していたのである。 

お前の志望校って、入試によく『源氏物語』を出すだろ。だから源氏物語に絞って、原文と現代語訳を覚えたらどうかと思ってさ。お前ならできるんじゃないか」  「奥村、お前はいつも『古文が全然できねえ』って言ってるけど、暗記力がすごいんだから、それを使ってみたらどうだ?

Mの話を聞いた僕は、「なるほど、その手はあるかもしれない」と考えた。さっそく過去問を見てみると、確かに僕の志望校は、過去10年のうち8回、古文に源氏物語から出題していた。しかも、訳文さえ知っていれば解ける問題が多い。 

これなら、自分にとって最大の武器であるフォトグラフィックメモリーが使えるかもしれない---。僕は、Mが提案してくれた作戦に乗ってみようと覚悟を決めた。 

さっそく翌日、源氏物語の参考書(原文と訳文が両方載っているもの)を一冊購入し、自室にこもって一心不乱に覚え始めた。いつものように、大声での暗唱と記憶への刷り込みを繰り返したのである。 

ただし、源氏物語と言っても、あの長大なストーリーの全編が参考書に載っていたわけではない。大学入試に出題されることの多い箇所を選び出し、編集したものだ。それでも参考書は、400ページというかなりの分量だった。 

年が明けるとすぐに本番という時期で、もう時間がなかった。僕は年末年始のほとんどを使い、ひたすら源氏物語の原文と訳文を同時に覚えていった。 

そして、ようやく入試当日の1週間前、400ページの分厚い参考書に左右対訳形式で記された原文と訳文を、すべて覚えることに成功したのである。原文を見ただけで、瞬時に訳文がすらすら書けるレベルにまでなっていた。 

ただし、僕には大きな心配事があった。本番の試験で源氏物語が出なければ、それまでの努力は無駄になり、古文は0点かそれに近い低得点に終わってしまう。また、仮に源氏物語が出題されても、参考書に収録されていない箇所だったら一巻の終わり。しかし、「そうなったらもう仕方がない」と割り切るしかなかった。 

最も空気を読まねばならない場での問題発言

入試の当日になった。 

最初の科目は国語だった。「始め!」の合図と共に問題用紙を開いた僕は、真っ先に古文の問題を見た。次の瞬間、「よしっ!」と机の下で小さくガッツポーズをした。 

出題されていたのは源氏物語。しかも、訳文を丸暗記した「藤壺」のくだりだった。原文も完全に覚えていたので、現代語訳を書けという問題だけでなく、「カッコに入る文字を書きなさい」といった問題にも対応できた。たぶん、古文は満点に違いなかった。 

漢文はあまりできなかった。現代文の結果は皆目見当がつかなかったが、選択問題はいつものように「正解ではないと思うものを選ぶ」というやり方ですませた。 

こうして、国語の試験は終了した。古文で満点を取った分、模試のときに比べて国語の点数は高いはずだった。 

僕は十分すぎる手応えをつかみ、弾んだ気分で休憩に入った。ロビーに行くと、高校の同学年の連中が5人いて、何やらヒソヒソと話していた。「よう!」と挨拶してその輪に入ってみると、試験の当日だというのに、話題は当たり障りのないことばかりだった。

誰も、直前に行われた国語の試験の話をしていない。後で聞いたところ、終えたばかりの試験の話をしているうちに、もし自分の間違いがわかったら、ショックでその後の試験に悪影響が及ぶからだという。 

しかし僕は、同期生たちのそんな心理にまったく気づかなかった。それどころか、彼らを前に、いかに古文の問題ができたかを滔々と喋り始めてしまったのだ。 

すげえラッキーだったぜ。国語が苦手な俺でもできた。たぶん完璧だと思うよ。よかった~」  「源氏物語だったな。実はさ、源氏物語で俺が暗記した場所が丸ごと出たんだよ!

僕が国語を苦手にしているのは、その場の全員が知っている。彼らは同時に表情をサッと変えた。空気を読めないASDの特徴が、入試という、皆が非常に神経質になっていて最も空気を読まなければならない場で、図らずも出てしまったのだ。 

「お前、俺に恨みでもあるのか?」

隣のFという男が「古文の問題、易しかったかな」と、憮然として呟いた。ふくれっ面になって、「それ以上何も話すな」と言いたげに僕を睨み付けてくる男もいた。でも、僕は自分を止められなかった。「最初の問題の答えはさあ・・・」という具合に、正解をすべて話してしまったのだ。 

騒々しい僕とは対照的に、皆、むっつりと黙り込み、1人、また1人とその場を去っていった。僕は「みんな元気ないな。緊張してるのかな」と思ったくらいで、彼らの気持ちには一向に無頓着なまま、最後の1人が去るまでぺらぺらと喋り続けた。 

数日後、学校に行くと、Fが寄ってきてこう言った。 

 「最初の国語の後、お前にあれだけショックを与えられたから、後は試験にならなかったよ。お前、俺に恨みでもあるのか?」

びっくりした僕は「何のこと?」と聞き返そうとしたが、Fは僕をギロリと睨むと、後は何も言わずに立ち去った。結局、彼は志望校に落ち、浪人したと聞いたが、その後の消息はわからない。もし今後、Fと再会するようなことがあったら、とにかく「あのときは申し訳なかった」と謝りたい。 

1ヵ月後---。自分で考えた勉強法のおかげで、何とか志望した地元の国立大学に合格した僕は、入学式に出席していた。

見知らぬ大勢の新入生と一緒にいて、僕はかなり緊張していた。気がかりは、これからの人間関係だった。見ず知らずの連中を相手に、「人間関係の構築」という、苦手で嫌いなことを一から始めなければならない。他人の顔色を窺い、また「いい人」を必死で演じながら日常生活を送るのは、これまで以上に大変なことのように思えた。 

ところが大学生活が始まってみると、そんな不安は瞬く間に吹っ飛んでしまった。なぜなら大学には、僕と同じ、「他人の気持ちがわからない人間」や「空気を読めない人間」が何人もいたからだ。今思うと、彼らがASDなどの発達障害を抱えていたのはおそらく間違いないと思う。言動を振り返ると、そうとしか考えられないのだ。 

彼らは周囲の目を気にせず、日々、自由気ままに過ごしていた。そういう者が何人かいるだけで、同種の人間である僕にとって、大学はストレスをまったく感じなくてすむ"パラダイス"になった。そんな仲間たちのことは、また回を改めて紹介していこう。 

2013年01月26日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第14回】
「君はバカ? それとも天才?」と聞かれて

嫌われたくなくて、無理に笑顔を作った大学生活

大学に入学してから、僕は「周囲から嫌われること」を心底恐れていた。高校時代と同じである。 

この連載の第11回で述べたように、僕は高校1年のときに、発達障害を持つ者に特有の言動のせいで、クラスメートたちから徹底的に嫌われるという経験をしていた。本当に偶然、周囲が僕に嫌悪の感情を向けていることを知ったのだ。そのときに受けた大きな衝撃は、3年近く経っても、深く、つらく心に残っていた。

高校ではその後、人に嫌われないような言動を必死で「学習」し、何とか"いい奴"を演じ続けることができた。しかし、人生は高校で終わりではない。僕は内心、「大学でも"いい奴"を演じなければならない。もう絶対に嫌われたくない」と固く決心していた。 

入学式が終わり、大学生活が始まった。 

僕は、周囲(新しい同級生たち)とのコミュニケーションの取り方を「ニコニコ笑っていること」だけに限定した。自分からは決して他人に話しかけず、逆に誰かから話しかけられても、ほとんど何も答えずに、ただ微笑してウンウンと相槌を打っていた。 

 「余計なことを口にして、クラスメートの間に波風を立てないようにしよう」ということばかりを考えていたのだ。いつも無理に笑顔を作っていたので、顔の筋肉がよく痛くなった。

基本的に毎日、僕は授業を受けるだけで自宅に直帰した。ただし、授業と授業の間の休憩時間には、新しい同級生たちがどんな言動を嫌うのか、あるいはどんな言動を好むのか、注意深く観察を続けた。"いい奴"を演じるために、大学における人間関係のルールを知っておこうと思ったのだ。 

その結果、わかったのは、高校でも大学でも、そのルールはあまり変わらないということだった。 

 「他人とのコミュニケーションにおいては、絶対に本当のことを言ってはいけない場合がある」「特に、他人の言動に対する評価では、本当の感想は言わない方がいい」「他人が自分にしてくれたことには、仮に欠点や不十分な点があっても決して指摘せず、『ありがとう』と感謝の言葉だけを述べておけばいい」「自分の成し遂げたことに対する自己評価も、黙っていた方がいい」・・・

どれも、高校時代に必死に「発見」し、「学習」したことだ。それがわかってようやく、僕は周囲と新入生仲間と少しだけ会話ができるようになったのである。

僕は、仲間とサークル活動を楽しむことができない

しかし、ゴールデンウィークが終わり、初夏が到来すると、新たな同級生たちはすっかり大学生活に慣れ、サークルや運動部に入って、そこを"居場所"にするようになった。新入生の大半が、サークルや運動部で気の合う友達を作り、日々の暮らしの軸をそちらに移してしまったのだ。 

僕はサークルにも体育会にも入らなかった。クラスでも友達を作ることができないまま、事実上、一人ぼっちになった。 

僕にも、「子供の頃から好きだった陸上競技や囲碁を、大学の運動部やサークルでやってみたい」という気持ちがなかった訳ではない。当然だが、運動部に入らないと陸上の大会に出場できないし、囲碁は一人で碁石を並べていても面白くない。 

だから大学の構内で、運動部やサークルの新入生勧誘の立て看板を見て、「これは面白いかも」と思うと、立ち止まってじっくり内容を読むことがよくあった。意を決して、あるサークルの部室を見学しに行ったこともある。 

でも、結局はどこにも入らなかった。理由はただ一つ。そこで新たな人間関係を構築していくことの苦労を想像すると、急に入る気が萎えてしまったからだ。またしても周囲に嫌われたり、嫌われないために"いい奴"の演技をしたりすることを考えると、それだけでげっそりと疲れてしまった。 

面白そうなサークルの部室の前まで行きながら、中に入る踏ん切りがつかず、ドアの前をうろうろするだけに終わったことも十数回ある。そういうとき、僕はいつも最後に、 

 「仲間と一緒にスポーツやゲームを楽しむことなど、僕のような人間にできるはずがないのだ」

と自分に言い聞かせ、部室の前からくるりと踵(きびす)を返してしまうのだった。淋しさはあったが、仕方がないのだと思っていた。 

「"数"を愛する人を大歓迎」という謎のサークル

さわやかな5月が過ぎ、梅雨に入った。僕は相変わらず、授業を受けるためだけに大学に行っていた。 

珍しく雨が降らなかったある日、午後早めの授業が終わると、僕は1人で、駅方面の出口に向かって歩いていた。キャンパスからは、4月の活気が嘘のように失われ、歩いている学生の数は入学直後の半分以下になったように感じられた。 

まだ、大学で親しい友達は1人もできていなかった。だから、早い時間帯であっても、授業が終われば大学にいてもやることがない。一刻も早く自宅に戻りたかった。 

早足で歩き、キャンパスの出口が見えてきたときのことだった。ふと視線を上げると、目の前の煉瓦造りの建物の壁に、くねくねと奇妙な形の文字が踊る一枚の紙が貼られているのに気づいた。何だろうと思って見てみると、そこにはこう書かれていた。 

 「Numbers研究会○月△日17時、××号教室で入会説明会をします!」 私たちは"数"を愛する人を大歓迎するサークルです 

僕は思わず足を止めて、もう一度、まじまじとその貼り紙を凝視した。よく見ると、記されたそれぞれの文字は、小さな数字を大量に組み合わせて構成されている。1から9まで、小指の爪くらいの大きさの数字(の活字のコピー)がたくさん、「私」とか「数」という文字の形になるようにぎっしり貼り合わされているのだ。 

一瞬、「うわっ、なんか気持ち悪いな」と思った。しかし、しばらく眺めているうちに、僕の心のどこか深い部分が、ここに書かれた言葉に急速に惹かれ始めていた。 

貼り紙はサークルの勧誘ポスターのつもりなのだろうが、白い紙を基調としていてあまり目立たないし、デザインも野暮ったい。そもそも、何をするサークルなのかがさっぱりわからない。夏休みの直前まで新入生を募集しているサークルなど、他に聞いたことがない。 

 「新興宗教とかいかがわしい自己啓発セミナーとか、怪しい団体かもしれないな」

僕はそう思い、立ち去ろうとした。しかし、もう一度貼り紙を見ると、足は止まってしまった。 

 「"数"を愛する人」という奇妙な文言が、僕の心をがっちり捉えて離さなくなってしまったのだ。行き交う車のナンバープレートからギネスブックに載っているさまざまな記録まで、僕は「数」というものにずっと執着し、偏愛してきた。同じように、数字が好きで好きでたまらない人たちが集まっているサークルなのだろうか・・・。

説明会に出ようか、帰ろうかとさんざん迷って

数字を集めて文字にしている不思議なセンスにも、最初はやや"引いた"ものの、見ているうちに心が惹かれていった。そして、貼り紙に書かれた入会説明会の実施日時「○月△日17時」をもう一度見て、僕はハッと気づいた。 

 「あれ、今日の夕方の5時じゃないか!」

なんと説明会は、わずか2時間後に行われるのだ。僕は行ってみることに決めた。どんなサークルかはまだよくわからなかったが、胸の中では、 

 「ここは、子供の頃から数に関わることが大好きだった自分を受けてくれる場かもしれない」

という漠然とした期待が生まれていた。「"数"を愛する人を大歓迎」という惹きの言葉が、僕の心に見事に刺さっていたのである。 

いくらASD(自閉症スペクトラム障害)特有の「他人とコミュニケーションを取るのが大の苦手」という部分を抱えているとはいえ、一人でいると淋しいと思うことはあった。家族以外にも、本音を語れる友達が欲しいと思うときもあった。いつもはただ、そういった孤独感や欲求よりも、人間関係の構築を煩わしく思う気持ちの方が上回っていただけだ。今思うと、この日は珍しく、前者が後者に勝っている日だったのかもしれない。 

入会説明会」と書かれた紙が貼ってあった。 説明会が始まる10分前。僕は会場の××号教室の前に行った。扉は閉まっており、「Numbers研究会 

2時間前、一度は説明会に行くと決めてからも、心は迷い続けた。キャンパス内を当てもなくブラブラしながら、 

 「どうせ僕を受け入れてくれる場所であるはずがない。入ったところで、また面倒な人間関係の中でくたくたになるだけだ。やっぱり帰ろうか」

という思いが何度も脳裏をよぎった。それでも最後には、××号教室に向かって歩いていた。 

扉の小さな窓から恐る恐る中を覗くと、十数人の学生が二つのグループに分かれ、笑顔で何かをさかんに論じ合っている。彼らの服装は、お世辞にもおしゃれとは言えない。 

そのうち、1人の男子学生が、窓から教室を覗き込んでいる僕に気がついた。彼は席を立って扉を開けてくれた。 

僕が「すみません、入会説明会に出たいんですけど、10分も前に来てしまいまして」と言うと、彼は腕時計を見て、「違います。今は11分前です。でも、まあいいか」とブツブツ言いながら、中に入れてくれた。おじぎをして教室に入った僕は、「よく知らない人たちの中では黙ってニコニコしている」という鉄則を守り、必死で笑顔を作りながら、皆が何をやっているのか把握しようと周囲を見回した。 

「僕の同類が何人もいる」と嬉しさでゾクゾク

数秒後、僕には、学生たちがやっていることがわかった。その瞬間、背中に強烈な電流が走ったような気がした。 

彼らは「10個の数字にさまざまな計算を施して結果を10にする」というゲームをやっていたのだ。一人が問題を出し、残りの者が解く。それを繰り返していたのである。計算には四則演算だけでなく、平方根(√)や対数(log)も使っていた。 

これこそ、僕が子供の頃から、暇さえあればやっていたゲームだった。車ではいつも助手席に座り、対向車のナンバープレートを使った計算に熱中していたことは 前に(第13回で)述べた通りだが、他にも数字を見れば、頭の中で自動的にいろいろな計算を始めるのが常だった。

この、僕が愛してやまないゲームをやっている人たちが目の前にいるのだ。皆、心底楽しそうである。真剣ながらも明るい表情や、キャッキャッとはしゃぐ声ですぐわかる。 

同類がいる、仲間がいる・・・。僕は名状しがたい嬉しさで、全身がゾクゾクするのを感じていた。 

思い切って、学生たちに「どうしてそのゲームをやってるんですか?」と尋ねてみると、1人から「説明会が始まるまでの暇つぶし」という、素っ気ないけれども納得できる答えが返ってきた。別の学生は「これだと、1分でも時間が空いたら楽しめるからね」と言った。 

急に、ずっとうつむいて考えていた1人の学生が、頭を掻きむしりながら天井を仰ぎ、「ああ、この問題、どうしてもわからん。どうやっても10にならない。俺、バカになったかも!」と叫んだ。すると、問題を出したらしい学生が「こんなものができないなんて、お前、確かにバカだよ」と応じた。 

そのやり取りを面白そうに見ていたリーダー格の学生が、僕に向かってニヤリと笑いながら、「このゲーム、やり始めると面白いよ。合宿のときなんか、徹夜でやっちゃうからね」と話しかけてきた。 

大好きです」  「そうですよね!

僕は思わず、叫ぶように答えていた。直感的に「ここでは"いい奴"を演じる必要がないんだ」ということを理解していた。自分の表情が緩んでいくのがわかった。 

 「好きなのか。じゃあ、うちのサークルにはぴったりだよ」と応じたリーダー格の学生は、腕時計に目をやると、全員に向かって「あと30秒で説明会を始めるぞ」と声をかけた。僕は息が止まりそうになった。「分」ではなく、「秒」で残り時間を告げる時間感覚。僕とまったく同じではないか!

他のメンバーたちも皆、当然のことのように、自分の腕時計を見て頷いている。僕にとって、自分と時間感覚が同じ人に出会ったのは、生まれて初めてのことだった。しかも、そういう同種の人たちが、ここには何人もいるのだ。 

「やっぱり君はバカなのか。それでよ~し」

入会説明会が始まった。リーダーによると、研究会の主な活動は、さまざまな数学の問題を解くことや、数を扱った論文を皆で読むことだという。また、メンバーたちが、子供の教育に役立つ「数を使ったゲーム」を考えて、地元の教育機関に提案することもあるという。 

ときには、なぜかジャグリングなど大道芸の練習をすることもあるらしい。理由を聞くと、ジャグリングの修得で磨かれる感覚と、数学の問題を解くのに必要な感覚はよく似ており、数字が好きな学生の多くが大道芸にハマるのだという。 

説明会の最後に、リーダーの学生がこう言った。 

 「このNumbers研究会に入るには、別に数学が得意ではなくてもいい。理系である必要すらありません。入る資格はただ一つ、『数の面白さ、美しさを満喫できること』です。メンバーには、数学科や理系学科の学生だけでなく、哲学科や心理学科、経済学部の学生もいます」

それから僕たちは、ふだんメンバーが集まるという部屋に連れていってもらった。いわば部室だが、そこには数学の論文集などと一緒に、数字を使った外国製のパズルや、学生が作ったというパズル、そして、1000ピース以上のジグソーパズルなどがごちゃごちゃに置かれていた。 

学生が作ったパズルの中には、今でいう「数独」と非常によく似たものもあった。数字を使ったパズルも、ジグソーパズルも、僕は子供の頃から大好きだった。この部屋にいれば、ずっと好きなものに囲まれていられるのか---。そう思って、僕は一種の懐かしさのような感情に満たされていた。 

そのとき、ガタンと大きな音がしてドアが開き、奇妙な風体の中年男性が早足で部屋に入ってきた。近くの学生が「顧問のS教授だよ。数学科の先生」と教えてくれた。 

後で知ったのだが、S教授は50代で、数学の世界では結構知られた学者だということだった。ただ僕は、この初対面のときの格好と言動に、完全に度肝を抜かれた。紫色のサテンのシャツを着て、どこで買ったのか、真っ赤なジーンズを穿いている。頭は、「鳥の巣」としか形容のしようがない、天然パーマのモジャモジャの髪型。汚い話だが、フケがかなり出ていそうだ。手入れをしている様子はまったくない。 

S教授は、その髪を前後にゆさゆさと揺らしながら一直線に僕の前に来て、甲高い早口でこうまくし立てた。 

入るのは自由だけど、僕たちは何も教えないからね。数学に必要なものは、ただ一つしかありません。それは才能です。才能だけ。努力なんかしても無駄だから」 この研究会に入りたいの?  「君、新入生かい?

 「はぁ・・・努力は無駄なんですか」

あの言葉は完全な嘘だからね」  「まったく無駄です。『努力に勝る天才なし』っていう言葉があるでしょ。知ってる?

それとも天才?」と尋ねてきた。 バカ? そして教授は、僕の目をじっと見つめて、「君はどっちかね? 

僕は、大学に入ってからも数学好きなのは変わらなかったが、問題のレベルが上がると、高校時代のようにスラスラとは解けなくなっていた。そこで、思わずこう答えた。 

 「え~と、大学に入ってから、今ひとつ数学がわからなくなったので、バカな方だと思います」

教授は、僕の答えの中の曖昧な部分を許さなかった。 

 「『バカな方』なんて言い方じゃわからないよ。バカか天才か、君はどっちなんだ?」

 「バカです」

 「それでよ~し!」

数学を楽しみなさい!」と歌いながら、部屋を出ていってしまった。 教授は満足したような大声を出し、「そうか、やっぱり君はバカなのか。きっとそうだろうと予想していたよ。ハハハ」と笑った。そして、おかしな節回しで「数字を愛しなさい! 

いつまでも「数」の話を続ける学生たち

呆然としている僕のもとに、今度は、研究会の学生たちがぞろぞろと寄ってきた。S教授との会話を聞いて、僕が数学のどんなところを苦手にしているのか、興味を持ったらしい。彼らは口々にこう言った。 

 「君はバカなのか」「数学の何がわからないの?」「遠慮なく聞いていいよ。教えてあげるよ」

僕はちょうどカバンに入れていた数学の問題集を出すと、素直に「この問題と、この問題がわかりません」と打ち明けた。すると全員が身を乗り出して、ああでもない、こうでもないと論じ合いながら、解法を考えてくれた。 

中には、自分のノートに克明に問題を写す人や、傍らのホワイトボードに競争のように数式を書き込み合って、「お前の解き方は違う」「いいや、そっちこそ間違っている」などと、熱く議論を交わす二人組もいた。といっても、険悪な雰囲気はまったくなく、二人がそのやり取りを知的に楽しんでいることは、時折混じる冗談や笑顔からも明らかだった。 

やがて皆、同じ答えにたどり着き、「これが正解だ」ということで同意して、リーダーがその正解と解法を一から丁寧に教えてくれた。それは確かに、「バカでもわかる」と言えそうな、実に明快で噛み砕いた説明だった。 

ふと腕時計を見ると、説明会に来てから1時間近くが経っていた。もう夕方なのに、誰も帰ろうとする様子もなく、「数」や「数学」の話を楽しそうに続けている。 

君はどう思う?」と声をかけられた。難しい問いもあったが、僕は自分の意見をあれこれと喋った。いつのまにか、「"いい奴"を演じなければならない」「ニコニコ笑ってあとはなるべく黙っていよう」という日頃の決意など、どこかへ吹っ飛んでいた。 ときどき、「ええと、奥村君だっけ? 

楽しかった。大学で「楽しい」と思ったのはこれが初めてだった。そして、家の外で周囲の思惑を気にせず自由に発言するのは、「自分は嫌われている」と知った高校1年のとき以来、やはり初めてのことだった。 

僕は、思う存分喋りまくり、ずいぶん久しぶりに他人のコミュニケーションを楽しみながら、「よし、絶対にこのNumbers研究会に入ろう」と決心していた。 

2013年02月02日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第15回】
同じ障害を抱えた、ものすごい変わり者の親友たち

「空気を読む」必要のない素晴らしいサークル

大学に入ってからもしばらく一人ぼっちだった僕は、1年生の夏休みの直前、最高の"居場所"を手に入れた。 前回記したように、「Numbers研究会」というサークルを見つけたのだ。

キャンパスを歩いているとき、奇妙なメンバー勧誘ポスターを見たのがきっかけで、まったくの偶然が重なって入会説明会に顔を出してみた。そこで会った学生たちや顧問教授のことをすっかり気に入ってしまい、すぐに入会を決めたのだ。 

人に嫌われることを気にせずに振る舞うことのできる場は、ただひたすら楽しかった。とにかくメンバーたちは皆、僕と同じく「数」や「数学」を愛し抜いているのだ。「人生で初めて仲間ができた!」と、躍り上がりたいような気分だった。 

暗い灰色だった僕の大学生活に、突然、色彩が付き始めた。意識して顔の筋肉を動かさなくても、笑顔が出るようになった。すべて、授業以外の時間に、Numbers研究会の部屋に入り浸るようになったせいだった。 

メンバーの学生たちは、何でもズケズケと本当のことを言う連中ばかりだった。問題が解けない仲間には「こんな簡単なのがどうしてできないの?」と聞き、ときに「高校2年でもできるこの問題が解けない君は高校1年レベルだな」とか「論理力が決定的に足らないね」といった言葉を浴びせるが、正解を出せた仲間には「すごいよ!」「1ヵ月で能力が2割は上がったんじゃないか」などとすぐに誉める。 

誰も悪意ある発言をしなかったし、逆にお世辞や追従の類も一切口にしない。だから、仲間の言葉の裏を読む必要がない。空気を読む必要もまったくなかった。 

僕はこのNumbers研究会で、最初から、仲間とのコミュニケーションにストレスをまったく感じなかった。本当のこと、つまり客観的な事実と、自分が実際に思うことを素直に話していればいいのである。無理に"いい奴"を演じる必要もない。そもそも、そんなものを演じたところで、ありがたがってくれるような者もあまりいそうになかった。 

いくら思ったことを遠慮なく喋っても、「空気を読めない奴だな」とも「座が白けるんだよ」とも「威張っているんじゃねえよ」とも「人を侮辱してるのか」とも言われなかった。裏を返せば、僕はどこへ行っても、そういったセリフを浴びせられ、煙たがられ、嫌われるのが常だったのだ。 

Numbers研究会の部屋の中では、あたかも実家の家族と一緒にいるときと同じように、リラックスして、「自制」ということを忘れて振る舞うことができた。数学の問題やパズルで間違った答えを出した者に「全然ダメだね」「理解度がゼロじゃないの」と言い、短時間で鮮やかな正解を出した者には「俺より才能が数段上だね」と誉めた。もちろん、僕の方が他の仲間に酷評されたり、絶賛されたりすることもあった。

僕たちは基本的に、他人からの批判に納得できなければ反論したが、感情的に怒るということがなかった。数字や数学については、すべて事実と論理に基づいて議論し、終わった後に人間関係のしこりが残ることも(少なくとも僕は)ゼロだった。 

しかし、おそらく他のサークルやクラブに入っていれば、僕の言動は傍若無人で配慮に欠けるとされ、多くの人を怒らせていただろう。その結果、周囲から無視されていたか、下手をすると追い出されていたと思う。 

数分で難問を解いてしまう数学の天才

こうして僕は、毎日のようにNumbers研究会の部屋に通った。いつも仲間たちと「数」の話に花を咲かせ、問題やパズルを解き、それから互いに答えを見せ合って、再びわいわいと盛り上がった。 

そんな日々が過ぎて半年ほど経ち、冬になった。僕はサークルでずっと、皆と楽しくやっていたが、その中でも、何でも話せる仲の良い友達が4人できた。 

発達障害を抱えている僕は、他人とのコミュニケーション能力が極端に低いのだが、そんな僕と友達になってくれた彼らは、今考えてみると、全員がやはり発達障害だった可能性が高いと思う。もちろん、医師の診断を聞いたわけではないので、断定はできない。しかし、今、彼らの言動を振り返ってみると、そう思えてならないのだ。 

でも、そんなことは何も問題ではなかった。皆、才能が豊かで、純粋で、真っ正直な男たちだった。そして、僕にとっては初めてできた、宝物のように大切な友達だった。以下、彼らの素顔を順番に紹介していこう。 

1人目は関西出身のTという男。口癖は「どうしてこんな簡単な問題がわからんの?」だった。 

Tは高校生のとき、数学オリンピックで世界上位の好成績を上げていた。僕は知らなかったが、同世代の、数学好きで天才肌の少年たちの間では、すでに有名人だったという。 

大学では毎日、数学の原書を抱え、暇さえあればそれを読んでいた。僕も一度、原書を見せてもらったことがある。日本語の本ならば何とか部分的にでも理解できたかもしれないが、英語で書かれているので、どうにもお手上げだった。 

Tにそう言ったところ、「どうしてわからんの?」といつもの口癖で尋ねてきたので、「俺、英語がダメだから」と答えると、こんな指摘が返ってきた。 

 「俺も英語は得意やない。でも、この本の内容は、数学がわかれば、英語なんて何が書いてあってもだいたい意味がわかるもんや。お前、英語がダメだからこの本がわからんのではなくて、数学の力が足りんからわからんのやろ」

独特なのは、Tの授業態度だった。なぜかいつも、授業が終わる10分前になると、階段教室の後ろの扉から入ってくる。そして、ガンガンガンと大きな足音を立てて階段を降り、一番前の席に着くと、教授が黒板に書いた問題をあっという間に解いて、またガンガンガンと音を立てて階段を上り、帰っていく。その間、わずか数分である。 

僕は「こいつは天才かもしれない」と思いつつ、どこかバカにされているような気がしてならなかった。いや、高校時代に世界の数学のトップレベル達していたTにとっては、僕の数学の実力などおそらく赤ん坊のようなものであり、バカにしていることはなかっただろうが、まったく眼中になかっただろう。 

しかし、Tの行動は皆にとって謎だった。なぜ、いつも授業の最後の10分だけに現れるのか。なぜ、一番後ろの扉から入ってきて、最前列の席まで、周囲の目を気にせず大きな音を立てて歩いていくのか。誰もが不思議に思っていた。 

ある日、大学の近くの喫茶店で、何人かの仲間でコーヒーを飲んでいたとき、誰かがTにその疑問をぶつけたことがある。Tは心の底から不思議そうな表情になって、こう言った。 

なんでそんなことを気にするの?」  「俺がいつ授業に来ようが、どの席で授業を聞こうが、お前たちにはどうでもいいことやろ。何かお前たちに迷惑かけてるか?

Tは別に怒った様子も苛立った風もなく、「どういう理由でこんな無意味な質問をしてくるのだろう?」と当惑しているようだった。誰も、何も言わなかった。以後、この話が仲間の間で蒸し返されることは二度となかった。 

数学が恐ろしくできたせいでモテた男

僕はわからない問題があると、なるべくTに尋ねるようにしていた。Tは必ず、「美しい!」と感嘆するしかない絶妙な解法で答えを導き出してくれたからだ。しかも、教え方も抜群にうまかった。 

質問するたびに、「どうしてこんな問題がわからんの?」というお決まりのセリフを返してくるのが常だったが、その口調にはいささかも僕を軽んじている風はなかった。そういうときのTは、まるで未知の動物に出会ったときのような視線で僕を見るのだった。彼はただ単純に、「自分と同じ大学で同じ授業を受けている人間で、こんなに簡単な問題の解き方がわからない奴が存在する」ということに驚いていたのである。 

数学が恐ろしくできる以外は、酒好きで女好きの、「気のいいあんちゃん」タイプの男だった。居酒屋などに行くと、よく飲み、よく喋るので、彼の周りは必ず明るい雰囲気になったが、何かを思いつくと、すぐに酒席でも突然ノートを取り出して数式を書き始めたりするのには閉口した。 

女性にもマメだったようで、合コンや飲み会やバイト先などでいろいろな子にちょっかいを出しては、そこそこモテていた。悪意や憎悪といった負の感情とはまったく無縁の、本当に子供のような純粋な男だったので、そこが女性を惹きつけたのかもしれない。 

あるとき、Tと僕、それに彼がバイト先で知り合ったという女子大生2人と飲んだことがあった。プチ合コンのようなものである。 

やがて酒が回った頃、Tはいきなり「俺、数学オリンピックで上位に入ったことがあってね」と言い出した。それを聞いた女の子の1人が、「ええっ、T君ってすごい!」と叫んで、急に尊敬と憧れの視線を彼に送り始めた。やがて飲み会はお開きになり、二次会に行くかと思ったが、Tは「俺たち、一緒に帰るわ」と言って、その女の子と一緒に夜の街に消えていった。 

いわゆる「お持ち帰り」である。僕はそのとき初めて「俺も昔、もっと真面目に勉強して、数学オリンピックを目指せばよかったな・・・」とちょっぴり後悔していた。 

分刻みで旅行スケジュールを立てることの喜び

2人目は、東京の有名進学校出身のMという男。Mは鉄道が好きで好きでたまらず、ちょっとでもお金に余裕ができると、全国あちこちに出かけて、鉄道に乗りまくっていた。今で言う「鉄っちゃん」である。 

Tが小脇に抱えているのが数学の原書なら、Mはいつも鉄道の時刻表をカバンに入れていた。しかも、日本国内の時刻表だけでなく、ヨーロッパ各地の鉄道の運行予定を記した「トーマスクック時刻表」も持ち歩いていた。 

Mが何のために外国の時刻表を毎日肌身離さず抱えているのか、僕にはさっぱりわからなかったが、暇さえあれば、頭の中で壮大な旅行計画を立てていたらしい。いつも学生食堂で時刻表を広げ、左手で猛スピードでページをめくりながら、右手だけでラーメンをずるずると食べていた彼の姿を今も思い出す。 

ときにラーメンの汁がぽたぽたと「トーマスクック時刻表」のページに落ちるのは、何とも汚い光景だった。それを見た女子学生の中には露骨に顔をしかめる者もいたが、本人は一向に意に介さず、真剣にあちこちのページをめくりながらラーメンをすすり続けた。 

大学2年のとき、MとTと僕で一泊の温泉旅行に行ったことがある。このとき、異常に盛り上がったのがMだった。と言っても、観光への期待で盛り上がったのではない。彼は、旅行のスケジュールを作れるのが嬉しくてたまらなかったのだ。 

 「スケジュールは俺に任せてくれ」と言われたのでそうしたら、出発前に驚いたことがあった。Mから渡されたスケジュール表には、すべて分単位で予定が記してあったのだ。列車の発着時刻はもちろん、

 「○○駅の1番線から9番線まで移動 4分」「△△公園の散策 55分」「駅前の売店でお土産探しと購入 13分」「入浴 35分」「入浴後、脱衣所で扇風機に当たる 3分」・・・

といった具合の細かさだった。 

こんなに詳しく予定を決めて旅行に行って、何が楽しいのか、僕には理解できなかったが、実際に分単位のスケジュールをこなしているときのMの顔は喜びに満ちていた。途中、△△公園というのが思ったより小さく、30分くらいで一周してしまったので、僕は「もう次に行こうぜ」と提案した。 

するとMは顔を真っ赤にして、「何を言ってるんだ。あと25分はここを散策するって俺がスケジュールを立てたじゃないか!」と怒り出した。仕方なく僕はさらに公園を何周かぐるぐる歩き、Tはベンチに座って数学の原書を読んで、残りの時間を必死で潰した。 

超マニアックな時刻表の見方

Mは、帰りの電車の発車が10分ほど遅れたときも激怒したのだが、それは、以後の到着時刻などの予定が狂うからだけではなかった。「この電車が○時□分に発車しないと、A駅とB駅の間で特急とすれ違うことができなくなるんだよ!」と騒ぎ始めたのだ。そして駅員をつかまえて、「どうしてくれるんですか。僕はA駅とB駅の間で特急とすれ違うのが楽しみで、この電車に乗ることに決めたんですよ」と抗議した。 

駅員は「お客様にご迷惑をおかけしまして申し訳ございません」と機械的に謝っていたが、Mはしつこく「あなた、僕がどうして抗議しているか全然わかってないでしょう?」とカラんでいた。確かに、誰にもわからないだろう。 

後で聞いたところによると、Mは鉄道で旅行に行くときは必ず、どの駅とどの駅の間で、どんな列車や電車とすれ違うのか、すべて事前に頭に入れておくそうだ。ダイヤの乱れなどが原因で、予定通りに「すれ違う」ことができないと、「ああ、この旅行は台なしだぁ~」と叫びたくなるほど深い絶望感に襲われるという。 

後に松本清張の『 点と線』を読んだとき、真っ先に思い出したのがMのことだった。時刻表を細かく見て、混雑している駅のホームを見渡せる「空白の4分間」なんていうものを思いつけるのは、超マニアックなMのような人間しかいないと思ったのだ。

ちなみにMは、テニス、スキー、水泳とスポーツも万能だった。囲碁も有段者で強かった。僕も囲碁には自信があったが、彼が打っているのを見て、「こいつ、相当できるな」と思ったことがある。 

それほどの多芸にもかかわらず、Mは「他人と群れるのが嫌いなんだ」と言って、Numbers研究会以外、どのサークルに誘われても決して入ろうとしなかった。 

「俺は抜群の女と付き合って当然の男だ」

3人目、四国出身のYも、スケジュールを作成するのが好きという点で、Mとよく似ていた。 

違うのは、Mの関心がもっぱら鉄道や旅行のスケジュール作成に向いていたのに対し、Yはどんな些細なことでも事前に詳細な計画を立てたがったところだ。いわば全方位型(?)である。ただし、細かい計画をその通りにきっちり実行しようとするのは、Mと同じだった。 

Yは若い頃の福山雅治に似た甘いマスクの持ち主だった。しかも、ピアノを弾けばプロ並みの腕前を披露する。 

そう言うと、いかにも女性が放っておかないタイプに思えるかもしれないが、残念ながらそうではなかった。「彼女が欲しい」というのが口癖だった。 

身体的な特徴をあげつらうのは失礼なことだと承知しつつ、あえて言うと、Yは背が低く、それに比して顔が非常に大きかった。中学ではアイドル的なルックスで女子生徒の人気を集めていたそうだが、高校に入ると身長の伸びが止まり、女の子もあまり寄ってこなくなったという。 

しかし、Yが女性に縁がないのは、そんな理由からではなかった。彼より外見が見劣りしながら、それなりにモテていた連中もいるからだ。 

Yはプライドの塊のように見えた。いつも小柄な身体をふんぞり返らせて、真顔で、 

 「俺のように頭も顔も良くて、ピアノも弾ける男が、そこら辺の普通の女と付き合うわけにはいかない。顔はもちろん、スタイルも頭も性格も抜群の女がふさわしい」

と放言していた。男女問わず、誰の前でもお構いなしにそんなことを言っていた。 

しかし、僕が知る限り、学生時代のYに彼女ができたことはなかった。当然である。「俺はいい女と付き合うべき人間だ」などと言う男に、女性は嫌悪感を持ちこそすれ、好感など抱くはずがない。僕は内心、「良いところもある奴だけど、女性に関しては自分が見えてないな」と思っていたが、口には出さなかった。 

このように、自分を客観視できないところ、周囲の空気が読めていないところが、まさに僕も持つASD(自閉症スペクトラム障害)の特徴と重なる。わかりやすく言うと、Yは完全に「勘違い」しており、しかもその勘違いに自分で気づいていなかった。

僕はYに会って初めて、自分が小学校時代、バレンタインデーにチョコレートをもらえなかった( 第10回参照)理由を理解することができた。その意味で、彼は貴重な反面教師だった。自分を知る上で、皮肉でも何でもなく、Yと会えて本当によかったと思っている。

モテまくっているのに「愛がわからない」と悩む

仲間の4人目は、九州出身のHという大柄な男である。身長が185㎝くらいあり、いつも背筋がピンと伸びて、均整の取れた体格をしていた。 

Hはいつもニコニコと微笑を浮かべていた。僕は、彼が怒ったところを見たことがない。その様子は底抜けの善人を思わせ、Numbers研究会で最初に会ったとき、「大黒様のような雰囲気の男だな」という第一印象を受けたことを覚えている。 

Hが他のメンバーと違っていたのは、女性からのモテ方だった。モテるだけでなく、とんでもない女好きだった。Tも女好きだったが、Hはレベルが違った。しかも、モテ方で見ると、Tなどは比較の対象にもならなかった。 

Hは常に楽しそうな笑顔を絶やさぬまま、付き合う相手を短期間でコロコロと変えていった。二股、三股も当たり前だった。世間から見ると「女にだらしない男」と非難されるのだろうが、彼はまったく気にする様子がなく、僕たちの飲み会にも、その時々のガールフレンド(と呼ぶべきかセックスフレンドと呼ぶべきかはわからないが)をよく連れてきた。 

恋愛に関して割と奥手だったYや僕は、正直なところ、そんなHが最初はうらやましくて仕方がなかった。しかし、あまりにも多くの女性を紹介されるので、そのうち、どうでもよくなってしまった。 

Hは決して悪人ではなかった。いや、他人に対する善意に溢れ、しかも絶対に嘘をつかない男だった。 

そんなある日、Hは喫茶店でTとMとYと僕と5人でコーヒーを飲んでいるとき、急に「俺は女好きだけど、愛というものがまったくわからないんだ」と告白し始めたことがある。誰かが「いきなり何を言い出すんだ、お前?」と問い返すと、Hはこう続けた。 

 「俺は女をしょっちゅう取り替えているけど、実は、相手に愛情を感じたことが一度もないんだよ。一緒にいて楽しいという気持ちはある。可愛いなと思う気持ちもある。もちろん性欲もある。でも、相手に愛情を感じるという心の動き自体がわからないんだ。どうしたらいいんだろう?」

Hは一気にこう言うと、「愛って何なんだ」とつぶやいて頭を抱えた。あまりにも意表を衝いた発言に、他の4人は完全に毒気を抜かれ、「う~ん」と唸るしかなかった。 

他人の悪口の何が面白いのか、さっぱりわからない

こんなふうに個性的な仲間たち4人に対し、僕は、自分が感じたことや考えたことを完全に率直に話すことができた。彼らは、僕がどれだけ「空気を読まない発言」をしても、決して否定的な視線でこちらを見なかった。それどころか、僕の気持ちを十分に理解してくれた。 

逆に彼らの言うことも、僕は素直に理解できた。これも人生で初めてのことかもしれなかった。それはでは、どこへ行っても、言葉の裏を読まねばならない状況に出くわして、ヘトヘトに疲れるばかりだったのだ。母以外に、こんなにストレートに気持ちが通じ合った相手に出会ったのは初めてだった。 

実は、TもMもYもHも、やはりNumbers研究会に入る前、中学や高校で孤立していたようだった。悪質ないじめを受けたらしい者もいた(本人はその詳細を語らなかったし、他のメンバーも決して突っ込んで尋ねなかった)。 

皆、このサークルに入って初めて、同じような特徴を持つ仲間に会えたのだ。確かに僕たちは空気が読めないかもしれない。しかし、空気が読めないのは5人とも同じなので、何の問題もなかった。 

僕たち5人の付き合いには、もう一つ特徴があった。誰も、絶対に不満や愚痴、そして他人の悪口を言い合わなかったということだ。全員、その種の話にまったく興味がなく、下らないと思っていたのである。 

僕たちが話すのはもっぱら、自分が面白いと思ったことや、やりたいと思っていることばかりだった。その多くが、数字や数学に関連していた。たまに、自分の話に夢中になって、他の人間の話はまともに聞いていないこともあったが、誰もとがめたりしなかった。 

今でも僕は、不満や愚痴や悪口の類にまったく興味がない。だから社会人になってから、職場の同僚と飲みに行ったことはほとんどない。同僚との飲み会で交わされる話の大半は、不満と愚痴と悪口だからである。 

中には、他人の悪口と下半身の噂話しか話題がないような人間もいる。ゲラゲラ笑いながらずっとそんな話ばかりして何が楽しいのか、僕にはまったく理解不能な人種である。 

社会人になって数年経った頃、職場の飲み会に出たら、やはり周囲から延々と人の悪口ばかりを聞かされたことがあった。「な、奥村、お前もあいつのこと、最低の野郎だと思うだろ?」と同意を求められたので、思わず、「僕は他人の悪口に興味がないんです」と言うと、場はシーンと静まり返ってしまった。 

きっと僕は「空気を読まない発言」をして、皆を白けさせたのだろう。そうなると、不思議なものを見るような視線を浴びせられるくらいはいい方で、僕自身が悪口の対象になってしまう。実際にこれまで、職場でそんな悪感情を持たれたり、白い目で見られていたりする雰囲気を感じることもあるが、もう、どうでもよくなった。 

もちろん今、同僚と一切酒を飲まないわけではない。前向きな話や、人の噂でも、陰湿ではない楽しい話ができる同僚とは、たまに飲みに行く。しかし、悪口ばかりが出てきて、気分が重くなるような席は願い下げだ。 

付き合いが悪いということになって、職場では損なのかもしれないが、精神衛生には代えられない。僕はこれからも働いている間は、ずっと同じスタンスを貫こうと思っている。 

細かいシミュレーションをして臨んだ合コン

学生時代に話を戻そう。僕たち5人は、大好きな「数」と「数学」を中心にして、互いに言いたいことを言ってやりたいことをやる、充実した毎日を過ごしていた。これは、おそらく皆に発達障害、それもASDという共通点があったことが大きいと思う。 

しかし、そこにASDの特性を持たない人たちが絡んでくると、問題が起こることもあった。中でも特に印象に残っているのは、1年生の秋だったか、ある女子大に通う女の子のグループと合コンをしたときのことだった。 

合コンを企画したのは「事前計画男」のYだった。相手の女の子たちが通うの女子大は、地元ではお嬢様学校として知られている。我々にとっては高嶺の花だったが、昔、ピアノのレッスンを一緒受けていた仲間がいるというツテで、Yが合コンにこぎ着けてくれたのだ。 

Yの気合いの入り方はすごかった。「何が何でも合コンを成功させ、自分も彼女を見つけてみせる!」という一心だったのだろう。それがまさか、あんな結末を迎えるとは、夢にも思っていなかったに違いない。 

合コンの当日、午後1時。僕たち5人は学生食堂に集まった。 

するとYが突然、カバンからガサゴソとA4版の紙を出してきて、皆に2枚ずつ配り始めた。そこには、午後7時から始まる合コンの詳細なスケジュールが、次のように書かれていた。 

 

女子学生たちは明らかに白け、腹を立てていた。その様子に気がついた幹事のYは、さらに恐慌をきたして、ついに1人で何度も一気飲みを始めた。それを見た先方の幹事役の子が「私たち、明日早いので帰ります」と言うと、女子大生たちは全員席を立ち、出て行ってしまった。Hが「また飲もうね」と声をかけたが、女の子全員に黙殺された。 

結局、僕たち5人だけで、二次会の場所に予定していた静かでシックなジャズバーに入り、泥酔して大騒ぎした。Yが隣の席のカップルに「イチャイチャしてるんじゃねえよ」と絡み始めたところ、怖いお兄さん風の店員が出てきて「お客さん、そろそろお帰り下さい」とすごまれ、僕たちはつまみ出された形になってしまった。 

皆で会うときが、今も人生で最も貴重な時間

ちなみにYは、大学を卒業してからも、女の子とのデートの前には細かいシミュレーションをやっているという話だった。現実は絶対に計画通りに進まないと理屈ではわかっていたのに、当日の詳細なスケジュールを作成する習慣を止められなかったのだ。 

何の意味があるのかよくわからないが、Yは、女性を連れていく店の電話番号も記憶していた。そういえば、互いに社会人になってしばらくしてから再会したとき、「明日デートだから、ちょっと会話のシミュレーションの相手をしてくれないか」と頼まれて面食らったことがある。 

そこまで入念に頑張っても、Yに、同じ女性と二度目のデートをする機会はめったに訪れなかった。その理由を、Yはいまだにわかっていないはずだ。彼は現在まで、僕ら5人のなかで1人だけ独身を貫いている。 

 男集合(U駅前のデパート正面入口前) 18時30分
K女子大グループ、合流(同じくU駅前のデパート正面入口前) 19時
○○ビル4階の居酒屋に入る 19時5分
着席完了(配席は参考図①の通り) 19時10分
飲物注文 19時12分
乾杯 19時20分
歓談開始 19時21分
最初のゲーム開始 19時45分
最初のゲーム終了 20時15分
席替え(配席は参考図②の通り) 20時20分
二番目のゲーム開始 20時25分
二番目のゲーム終了 20時55分
席替え(参考図②参照) 21時
一次会終了 22時
居酒屋を出て二次会会場に移動開始 22時5分
二次会会場(U駅近くのジャズバー)に入る 22時15分

このスケジュール表に驚いたのは覚えているが、合コンそのものの印象は残っていない。ゲームもやったはずなのに、内容は記憶にない。しかし、女子大生たちの白けきっていたこと様子だけは鮮明に覚えている。そのときの彼女たち1人1人の表情が今でも浮かんでくるくらいだ。 

女子大生たちが激怒した理由

皆、大真面目だった。特にYは、事前に居酒屋と二次会の店を下見していただけでなく、両方の料理の味見もしていた。駅から居酒屋までの移動時間や、そこから二次会の店への移動時間も、なんと秒単位で測っていた。 

さらに女子大生側の参加メンバーやそれぞれの性格も、相手方の幹事から聞き出していた。その上でYは、どういう配席にすれば自分に彼女ができる確率が最も高くなるかを考えて、席を決めていたのである。 

 「これだけシミュレーションを事前に完璧にやったのだから、今回の合コンは成功するに違いない」とYは学生食堂で熱く語っていた。TもMもHも僕もそれを信じた。しかし、結果はその正反対だった。

躓(つまず)きは、いきなり最初からやってきた。女子大生グループのメンバーが予定より1人少なかったため、配席表はその意味を失い、Yはパニックに陥った。「なんで急に1人少なくなるの?」と叫び出し、雰囲気は最初から険悪になった。 

女性が隣に座らなくなり、1人あぶれた形になったTは「なんで僕を仲間はずれにするの?」と女の子たちに絡み始めた。Hは、珍しく自分の"女たらし能力"を過信したらしく、隣に座った子に「君はきれいだから、頭をなでさせてよ」と訳のわからないお願いをして、思い切りビンタを食らっていた。 

 

僕たち5人は、大学を卒業した後も、月に一度はどこかで会う時間を持つようにしてきた。皆、違った仕事に就いた。社会に出ると、揃って対人関係に苦労し、それが原因で、YもKもHも転職している。それぞれが抱える発達障害ゆえだろうと僕は思っている。 

Yはすでに四度の転職歴を持つはずだ。人間関係で苦労し、鬱になりかけたこともあったという。 

そんな僕たちにとって、月に一度、皆で会うときは、存分に本音を語れ、気を使わずに話ができる、人生で最も貴重な時間になっている。この集まりがあるからこそ精神面でのバランスが保てていると、僕は考えている。 

そう考えるたびに、僕はゾッとしつつも、同じ悩みを抱え、生涯助け合っていける友人たちを得た幸運を、改めて噛みしめているのだ。 もし、大学1年の夏休み前のあの日、Numbers研究会の勧誘のポスターを目にしなかったら・・・? もし、彼らに会えていなかったら、僕の人生はどうなっていただろう?