一発逆転を狙える“6次産業化”を見つける。今まで漁師は魚を獲ったら仕事が終了だったが、“6次産業化”では漁獲、加工、流通・販売をすべて行う。手間が増えるがその分収入もアップするという仕組みである。


荒くれ漁師をたばねる力 ド素人だった24歳の専業主婦が業界に革命  


100人の漁師を束ねるシングルマザー “取っ組み合いのケンカ”しながらつくり上げたビジネスモデル

 

https://dot.asahi.com/aera/2018051600025.html?page=2


 約100人もの漁師を束ね、「萩大島船団丸」の代表を務めるシングルマザーがいる。かつては漁師たちとぶつかり合いながらつくり上げたそのビジネスモデルに、今では多くの人が注目している。

 

 消費者の魚離れ、後継者不足、燃料費高騰……。

 

逆風が吹き荒れる漁業の世界で、生産者(1次産業)が製造・加工(2次産業)や流通・販売(3次産業)まで一貫して関わり、より多くの利益を得る「6次産業化」に取り組んで注目を集めるのが、漁師集団の「萩大島船団丸」だ。

 

 萩大島船団丸が拠点を置くのは、山口県萩市の沖合約8キロ、人口わずか700人の大島(通称・萩大島)だ。大阪など大都市の飲食店に魚を直送して利益を上げるビジネスモデルを学ぼうと、全国の漁業関係者らが足しげく視察に訪れる。

 

 最盛期には約100人にもなる漁師を束ねるのは、代表の坪内知佳(31)。9年前は、漁業の知識などほとんど持たないシングルマザーだった。

「出身は福井県です。結婚を機に、縁もゆかりもなかった萩市に移り住んだ、ごく普通の専業主婦でした」

 

 当時、夫と離婚し、翻訳や企画の仕事などを細々とこなしていた坪内。2009年、今は萩大島船団丸の船団長として働く漁師の長岡秀洋(58)からこんな言葉をかけられた。

 

「俺らの未来を考える仕事、手伝ってくれんか?」

 

 国内の漁獲高は、1984年をピークに減少の一途をたどっている。先細る収入に全国の漁師が危機感を募らせており、萩大島の漁師たちも例外ではなかった。

 

「何か手を打たなければ」と模索はするが、いかんせん漁師だけでは知識が足りない。そこで長岡が、パソコンや英語を使いこなせる坪内に白羽の矢を立てたのだ。

 

 坪内は、政府が、農林漁業者がより多くの収入を得られるよう、6次産業化を推奨しようとしていることを知り、その波に乗ることを長岡らに提案した。長岡の「難しいことはようわからん」の一言で、代表に就任し、萩大島の漁師たちの未来を託された。

 

 ネットなどで得た情報を元に、事業計画を立てた。だが、地元出身でもない、しかも若い女性にあれこれと口を出されることを、快く思わない漁師も多かった。漁師との信頼関係をどう築くか。6次産業化を進める以前に、坪内は大きな課題を突きつけられた。

 

「仕事やる気あるんか!」

 

 スーツで島を訪れ、漁師からそう言われた坪内はすぐにジャージーを10着購入。翌日からスーツを脱ぎ捨て、うろこまみれで魚の運搬作業を手伝った。当初は「何を言っているのか半分も聞き取れなかった」という島の言葉も、日々けんかを繰り返す中で彼らの口調をまねながら覚え、今では島言葉で漁師たちにゲキを飛ばすほどになった。

 

 坪内は言う。

「彼らの常識に染まらないと信頼関係は築けないので、まずは100%こちらが歩み寄る。すると彼らのことがよくわかります。わかって初めて任せられる仕事もあるし、私が彼らのことを理解してこそ、外への橋渡しもできますから」

 

 だが、漁師の意見に合わせているばかりでは、新しい道は開けない。

 例えば、魚の流通や燃料の調達、資金の工面まで様々な面で漁師を支えてきた漁業協同組合(漁協)との関係だ。

 

 萩大島船団丸が自ら流通も手がけようとすることに、これまで魚の流通を一手に担ってきた漁協は反対した。関係の深い漁協を敵に回したくない船団丸の漁師たちと坪内は、しばしば激しく意見をぶつけ合った。苦境を脱するには6次産業化しかないと信じる坪内は一歩も引かず、時には漁師と取っ組み合いのけんかになることさえあったという。

 

 11年5月、萩大島船団丸は「六次産業化・地産地消法」に基づく認定事業者に、中国・四国地方で初めて認定された。認定は受けても、魚を買ってくれる顧客がいなければビジネスとして成立しない。坪内は飲食店がひしめく大阪に狙いを絞り、飛び込み営業で次々に買い手を開拓した。

 

 ところが、営業に忙しく漁の現場に現れなくなった坪内に、漁師から「遊び歩いている」と不満が出始める。

 

「もうお前はいらん、俺らでやる」

 

 けんかの末そう告げられた坪内は、A4のコピー用紙の両面に大阪で開拓した顧客の連絡先や注文を受ける上での注意事項などの情報をぎっしりと書き込み、長岡に渡してその場を去った。

 

「私が島の外で何をしていたか知って、長岡は号泣したそうです。以前はただ漁のことしか考えられなかった彼らが、顧客への対応を任せられるステップに進んだと感じました」

 

 船団丸に戻った坪内は、自身が主に担っていたお店からの受注や箱詰め、発送、伝票づくりといった事務的な仕事を、徐々に漁師たちに任せるようにし始めた。

 漁師らの慣れない作業に飲食店からのクレームやトラブルは増え、123件あった顧客は一時、60件にまで減った。漁だけをしていればよかった漁師にも、作業を強いられることへの不満が募った。

 

だが坪内は言う。

「人を育てることが、組織を育てることなんです」

 

 坪内は、押し寄せるクレームに5台の携帯電話を駆使して対応した。客におわびを繰り返し、漁師に細かく改善を指示した。それでも、坪内は彼らに仕事を任せ続けた。客との受け答え、梱包(こんぽう)への不満など、トラブル続きの日々が沈静化するまで結局丸2年かかった。

 

 魚を捕るだけでなく1人で何役もこなす漁師が増え、「強い組織になってきた」という。

 

「私の役割は組織全体を俯瞰(ふかん)して社員それぞれを適材適所で伸ばすことです。主役は社員。顧客には私のファンになってもらうのではなく、社員一人ひとりのファンになってもらわなければ意味がないんです」

 

(文中敬称略)(ライター・渕上文恵)

※AERA 2018年5月21日号より抜粋