2012年12月01日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」
【第6回】 僕が絶対に記憶できないこと

楽しくてたまらないイベントで起こったこと

誰もが自然にできる「あること」が、自分にはできない---。 

そんな衝撃的な事実に僕が気づいたのは、小学生のとき。きっかけは皮肉なことに、やはり「サザンオールスターズ」だった。 

僕が通っていた小学校では、放課後になると、クラスメートたちがある"イベント"を連日のように開催し、下校時間ギリギリまで盛り上がっていた。 

まず、全員の机と椅子を後方に移動させ、教室の真ん中に空いたスペースを作る。そこを即席のステージにして、みんなで順番に、ヒット中の歌謡曲を次から次へと歌いまくるのだ。いわば、小学生版「ザ・ベストテン」である。 

当時は、松田聖子の『赤いスイートピー』や薬師丸ひろ子の『セーラー服と機関銃』などが大ヒットしていたアイドル全盛時代。マイク代わりに筆箱や物差しを握って即席ステージに立てば、誰だって気分はアイドルだ。 

男子も女子も、我も我もと仲間たちの前で巧みにフリをつけ、一人ずつ、歌手になりきって熱唱するのだった。それを囲んで、あちこちから「イエーイ!」「ヒュー!」とにぎやかな叫び声が上がる。僕が「あること」に気づいたのも、そんな楽しくてたまらないイベントの真っ最中のことだった。 

決して忘れることのできない出来事

その日、最初に即席ステージに立ったのは、「あたし、将来は歌手になる」と、今考えると失笑ものの夢を語っていたK子だった。彼女が歌ったのは、当時「ザ・ベストテン」でランキング上位に食い込んでいた、シュガーの『ウェディング・ベル』だった。 

次に歌ったのは、太目の体型で坊主頭、妙に悟りきった口調から、小学生なのに「オッサン」というあだ名をつけられていたS太郎。彼は僕と同じくサザンオールスターズの大ファンで、そのときも『いとしのエリー』を熱唱した。 

物真似のうまさで人気者だったS太郎は、桑田佳祐の巻き舌気味の発音を巧みに再現し、みんなを爆笑させた。歌い終えると、もちろん大変な拍手喝采が起こった。 

アンコール!S太郎君、次は『チャコの海岸物語』を歌って!」という女の子の声が飛ぶ。『チャコの海岸物語』はそのときのサザンの新曲で、僕も大好きなナンバーだった。 

最初はオクからだ。イェーイ!」とシャウトしてくれたのだ。すぐに「オーッ!」という歓声と拍手が上がり、「行け、奥村!」と声をかけてくれる男子もいた。 その声を受けたS太郎は、僕に視線を向けてニヤリと笑った。「オク、お前もサザンのファンなんだろ。ステージに上がれよ」と芝居っ気たっぷりに誘うと、「一緒に歌おうぜ!

僕はそれまで一度も、この即席ステージに立ったことがなかった。でも、S太郎に誘われたことが嬉しくて、「よっしゃ、歌うぞ!」と叫ぶとみんなの前に出た。 

さっそく、「ラララララララ~」と叙情的なピアノのイントロを口ずさみ始めるS太郎。その隣で大好きな『チャコの海岸物語』を歌い出そうとした、まさにそのときだった。決して忘れることのできない、あの出来事が起きた。 

「なぜこんなことになってしまったのか」とパニックに

僕はS太郎の横で、口を開けたまま、絶句してしまったのだ。なぜか、口からまったく歌詞が出てこない。 

僕は『チャコの海岸物語』を、「ザ・ベストテン」ではもちろん、ラジオでもすでに何度も聴いていた。でも、クラスメートたちの前に立ったこのとき、頭の中には、ひたすら『チャコの海岸物語』のメロディーが流れるばかり。どれだけ歌詞を思い出そうとしても、文字が一つも浮かんでこなかったのだ。 

僕は焦りでパニックに陥った。「なぜ歌詞が思い出せないんだ!?」と叫び声を上げそうになったが、かろうじて自制した。金魚のようにただ口をぱくぱくさせているのが自分でもわかった。端から見ると、ずいぶん異様な光景だっただろう。 

ただならぬ気配を感じたらしく、隣のS太郎が心配そうに「おい、どうしたんだよ?」と小声で聞いてきた。僕が正直に「ごめん。歌詞を忘れちゃったみたいなんだ」と答えると、心優しい彼は「そうか。新しい曲だからしょうがないな。じゃあ、俺が歌っちゃうよ」と言って、僕の代わりに声を張り上げた。 

その間、僕はS太郎の横で呆然と突っ立ったまま、ただただ驚いていた。無理もない。あんなに何度も聴いて、心から好きだと思った『チャコの海岸物語』なのに、一切の歌詞を覚えていなかったのだから。「なぜこんなことになってしまったのだろう」と、ショックで何も考えられない状態になった。 

さらに---。 

僕が歌詞を思い出せないのは『チャコの海岸物語』だけではないことがわかった。S太郎の後、他のクラスメートが近藤真彦の『ギンギラギンにさりげなく』や田原俊彦の『哀愁でいと』を歌ったが、それらの歌詞も僕はまったく覚えていなかったのだ。 

彼らが「俺は『ギンギラギンにさりげなく』を歌うぞ!」「『哀愁でいと』、行くぞ!」と歌う前に前置きするたびに、僕はすばやく記憶をたぐって、それらの歌詞を必死で思い出そうとした。しかし、やはり一文字も浮かび上がってこなかった。

歌を聴きながら、必ず歌詞を覚えてみせる

その週の木曜日。夜9時から「ザ・ベストテン」を見始めた僕は、一つの決意を固めていた。「番組を見ながら、その場で歌の歌詞を覚えてやろう」と考えたのである。 

当時の僕は、自分に、目で見たものを丸ごと覚えられる能力があることをすでに知っていた。だから、その力を使って、集中して番組を見ていけば、絶対に歌詞もきっちり覚えられる---。固くそう信じていた。 

画面では、再結成したばかりのザ・タイガースが新曲『色つきの女でいてくれよ』を歌っていた。この日が「ザ・ベストテン」初登場の曲だ。 

僕は睨み付けるように集中して画面を見つめ、歌詞を聴き取ろうと試みた。こうすれば、歌詞が脳にきっちりとプリントされると思ったのだ。視覚で捉えた文字群が僕の脳に完璧にプリントされるように。 

ところが・・・何ということだろう。メロディーは頭に入ってくるのだが、肝心の歌詞が記憶に残らない。それでも必死で集中した。そして、ザ・タイガースが番組で歌い終えてから、自分でも『色つきの女でいてくれよ』を最初から歌ってみようとした。しかし、まったく言葉が出てこない。かろうじて思い出せた歌詞は、サビの部分だけだった。 

画面ではザ・タイガースが引っ込み、来生たかおが出てきて、『夢の途中』を歌い始めた。何週も連続でランクインしている曲だ。「これなら覚えられるはずだ。そもそも何度も聴いているのだから、すでに無意識のうちに記憶しているのではないか」と自分に言い聞かせて、祈るような気持ちで再び画面を睨み、歌詞を脳に焼きつけようとした。 

来生たかおの歌が終わった。僕が『夢の途中』を歌う番だ。今度はきちんと頭に入っているはずだし、そもそもあれだけ流行っている歌なのだから、歌詞がスイスイと出てくるに違いない。 

しかし、そう思って開いた口からは、一つの単語も出てこない。やっぱりダメだった---。テレビの前で、僕は身体も心も凍りついていた。 

粉々に打ち砕かれた自信とプライド

この晩の「ザ・ベストテン」が終わったとき、僕は、小学生にとっては非常に残酷な事実を突きつけられていた。「どんなに好きな歌を聴いても、自分はその歌詞を自然に覚えることができない」という事実だ。 

正確に表現すると、「僕は歌を聴きながら、同時に歌詞を覚えるという行為ができない」となる。普通の人なら、『いとしのエリー』が好きで何度も聴いていれば、自然と頭の中に歌詞が入り、S太郎のように歌えるようになるらしい。これは、頭が良いとか悪いといったこととは関係がないはずだ。

でも、僕の場合は、メロディーと歌詞という2つの情報が耳から入ってくると、理由はまったくわからないが、メロディーしか脳にインプットされないのである。だから、同じ歌を何回聴いても、それだけでは絶対に歌詞を覚えられない。 

前に述べたように、僕は中学時代、期末試験中にもかかわらず、朝から教室でサザンの『BYE BYE MY  LOVE』を級友たちと一緒に延々と歌い続けたことがある。そのとき、他の2人は歌詞を口ずさんでいたが、僕はメロディーを鼻歌で歌っただけだった。歌詞がまったく記憶になかったからである。

 「ザ・ベストテン」を見終わった僕は、がっくりしてしばらく立ち直れなかった。なぜ、歌を聴きながらメロディーを覚えられるのに、歌詞を同時に覚えることができないのだろう。なぜ、他のクラスメートにできることが僕にはできないのだろう・・・。

見たものを脳に焼きつけられるという力のおかげで、僕は「記憶」に大きな自信とプライドを持っていたが、それは粉々に打ち砕かれた。心を突き刺されたような思いだった。 

丸暗記でやっと歌えるようになった曲

後になって、そんな僕でも、歌の歌詞を覚えられる方法が一つだけあることがわかった。曲の歌詞カードを手に入れ、音楽抜きで歌詞の部分を何度か読む、つまり、フォトグラフィックメモリーを駆使して丸暗記するのである。教科書を暗記するときと同じやり方だが、馬鹿馬鹿しいほど手間と労力がかかる。 

しかも、視覚情報として脳にプリントした歌詞を、メロディーに合わせて歌うには、さらなる努力が必要となる。なぜなら、「メロディーに合わせよう」ということに意識が向くと、覚えたはずの歌詞が口から出てこなくなるからだ。逆に、「歌詞を口から出すことを優先させよう」と意識すると、今度はメロディーに合わせられない。きちんと音程が取れず、歌詞を棒読みするような形になってしまうのだ。 

このように、労多くして得るものが少ない方法なので、実際に試したことは一度しかない。最後には、何とか歌らしきものを口ずさむことができるようになったが、かなりの時間がかかり、すっかり疲れてしまった。 

この、歌詞の丸暗記を一度だけ試した歌というのは、通っていた中学校の校歌である。入学した直後、「さすがに校歌を歌えないとまずいのではないか」と思い、生徒手帳に書いてあった歌詞を見て、丸暗記してみたのだ。 

文字情報の丸暗記そのものは、僕にとっては朝飯前だった。しかし、入学式や始業式、終業式、卒業式などで、ピアノの伴奏に合わせて歌詞を歌おうとすると、これが非常に難しい。結局、他の生徒と同じく自然に歌えるようになるまでに、1年以上かかった記憶がある。

大相撲中継を見て、泣きたい気持ちに

正直に告白すると、僕はいまだに『君が代』が歌えない。ただし、これは思想信条とは何の関係もない話である。 

僕は一国民として愛国心を持っており、国歌には敬意を払っているし、払うべきだとも考えているのだが、どう頑張っても『君が代』の歌詞が記憶できないのだ。冒頭部分の「き~み~が~よ~は~」しか覚えられていない。もちろん、メロディーは完全に覚えているのだが。 

日本国民失格ではないのか?」と、悲しく泣きたいような気持ちになったのだ。 歌えるものなら、僕だって歌いたい。先日も、大相撲の千秋楽をテレビで見ていたら、優勝した白鳳が、表彰式の前、場内に流されたメロディーに合わせて『君が代』を口ずさんでいた。このシーンを目の当たりにして、僕は自分が心底情けなくなった。「モンゴル人の白鳳が『君が代』の歌詞を記憶しているのに、なぜ日本人である僕は覚えていないのだろう? 

しかし、それでも覚えられなかったらどうしよう・・・? やはり国民として、『君が代』の歌詞を丸暗記し、メロディーに合わせて歌う練習をした方がいいのだろうか? もし僕が東京都や大阪市の教職員だったら、『君が代』を歌えないという理由で処分を受けることになるのだろうか? 

そんなことを思い悩みながら大相撲の表彰式の中継を見ていたのは、おそらく日本中で僕だけだったかもしれない。 

こんな話をすると、中には「歌手じゃないんだから、歌詞が覚えられないくらいであんまり深刻になるなよ」となぐさめてくれる人もいるかもしれない。確かに、歌詞が覚えられないだけならば、日常生活に大きな支障はない。歌を歌わなければいいだけの話である。でも僕の場合、残念ながらそれでは済まなかった。 

僕は中学校に入学してまもなく、これが自分にきわめて深刻な事態をもたらす問題であることを、否応なしに思い知らされることになったのである。 

〈次回に続く〉

 

2012年12月08日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」
【第7回】 中学時代から僕を苦しめてきた「深刻な症状」

突然、異変が起きた

その症状に僕が初めて気がついたのは、中学の生活にようやく慣れた、中学1年生の6月のことだった。 

すでに季節は梅雨に入っていて、連日、雨が降り続いていた。ところが、その日は朝から珍しく快晴。僕は「今日は久しぶりに外で体を動かせるぞ」と、浮き立つ気持ちで登校した。1時間目の授業は体育だった。 

朝礼が終わると、生徒たちは皆、体操服に着替えていっせいに外に飛び出し、校庭の真ん中で円座になって集まった。そこへ体育の教師がやって来て、「今日の授業ではサッカーをやるぞ」と言った。 

僕も含め、運動好きの生徒たちは「やったぁ!」と歓声を上げ、皆、思い思いに近くのクラスメートと話し始めた。教師はそんな騒がしい雰囲気に構わず、淡々とチーム分けを発表していった。 

 「俺、誰と一緒のチームになるのかな?」

そう思って、何気なく教師に顔を向けた瞬間、僕の「耳」に異変が起きた。 

突然、体育教師の声が聞き取れなくなったのである。ほんの数メートル先で彼が何を話しているのか、内容が急にわからなくなった。 

声そのものが聞こえなくなったわけではない(無音状態になったわけではない)。教師が喋っているのは聞こえる。周囲で同級生たちがお喋りしているのも聞こえる。しかし、体育教師が発する言葉が、あたかもクラスメートたちの声に溶け込んでしまったかのように、何を意味しているのか急に理解できなくなったのだ。 

僕は教師の顔を凝視し、集中して、彼が何を話しているのかを把握しようと試みた。でも、どう頑張ってもそれは不可能だった。教師の太い声は、音としては十分に僕の耳に入っており、単純に「聞く」ことはできる。同級生たちのお喋りでかき消されているわけではない。 

言ってみれば、同級生たちの声と体育教師の声が、僕の頭の中で混在し、一緒に鳴り響いているような状態だった。その音のカオスの中から、教師の声のみを選んで意味を取ることができなくなったのだ。

みんなが覚えていることを、僕だけ記憶していない

あれ?」と独り言を呟きながら、それでも必死で、チーム分けを発表する教師の声を理解しようと頑張った。しかし、その努力はまったく実を結ばぬまま、チーム分けの発表は終わってしまった。 そんな事態になったのは初めてだった。首を振ったり、指を耳の穴に突っ込んだりしてみたが、何も効果はない。僕は焦った。「あれ? 

このときは、隣に座っていた生徒に「ちょっと聞き逃しちゃたんだけど、俺、どのチームになった?」と尋ねて、事なきを得た。ホッとした僕は「少し体調が悪いのかな」と思っただけで、その後、サッカーに興じている間に、謎の症状のことはすっかり忘れてしまった。 

体育の授業を終えて教室に帰っていくときの僕は、まさかこの症状が日常生活のあらゆる局面で繰り返し起き、自分の人生に深刻な影響を与えることになるとは夢にも思っていなかった。 

再び同じ「耳」の異変が起きたのに気づいたのは、数日後のことだった。場所はやはり学校。国語の授業が始まり、教師が「先週の授業で宿題に出したリポートを提出しなさい」と命じたときだった。 

クラスメートたちは皆、がやがやと話しながらリポートを提出していった。ところが、その中で僕は一人、慌てふためいていた。リポートを作成していなかったのだ。なぜなら、リポートの宿題が出ていたこと自体を、完全に忘れていたのである。 

いや、「忘れていた」というのとは違う。正確に言えば、僕には、リポートの宿題を出されていたことの記憶が最初からまったくなかったのだ。 

僕は頭を抱えたが、ないものは仕方がない。やむをえず手を挙げて、「すみません、リポートを忘れました」と申告すると、教師に前に呼ばれてひどく叱られた。ひとしきり面罵されてから自席に戻った僕は、隣の席のHという生徒に「リポートの宿題って、いつ出されたんだっけ?」と小声で聞いてみた。 

Hはすぐ、「ちょうど先週の今日、授業の終わりに先生が言ってたじゃん」と答えた。事実、そうなのだろう。リポートを忘れていたのはクラス中で僕だけだったのだから。 

でも僕には、宿題を出されたという記憶がまったくないのだ。真面目に聞いていた国語の授業だったのに・・・。 

このときも僕は、「先生は授業の終わりに宿題の話をしたというし、まぁ、俺も疲れてボーッとしていたんだろうな。だいだいこの先生、声は小せえし、授業はつまんねえし、もっと面白いこと話せっつうんだよ」と心の中で毒づいて、勝手に原因を先生に転嫁した。そして、それ以上深くは考えなかった。 

何かよからぬことが自分に降りかかっている

ところが---。 

国語の授業が終わろうとしたそのとき、またも「異変」が起きたのである。 

どんな授業でも、終了間際の時間帯は、もうすぐ終わるという解放感と嬉しさからクラス中がペチャクチャとお喋りを始め、騒々しくなるのが常だ。このときもそうだった。でも僕は、リポートを忘れて教師に叱責されたこともあって、気を緩めることなく、緊張して教師の顔を見つめ続けていた。 

そんな中、僕は教師が「宿題」という言葉を発したのを聞き取った。おっ、今日も授業の最後に宿題を出すのか。先週はこれを聞き逃してしまってみんなの前で赤っ恥をかいたけど、今日はしっかり聞いておくから大丈夫だ---。僕はそう思い、声を張り上げて喋る教師の言葉をノートにメモしようとした。 

しかし、なぜか突然、教師が話す言葉が理解できなくなった。だから宿題の内容がわからない。前述した体育の授業のときと酷似した状況だ。教師の声は、音として僕の耳にきちんと入ってくる。しかし、何を意味しているのか、話の内容が把握できない。 

原因はすぐわかった。隣の席のHが、前の席のKとボソボソ喋っている。その声が、教師の話を理解するのを邪魔するのだ。彼らの声と教師の声が僕の中で重なり、絡まり合って、またも音声のカオスが出来上がる。どう集中しても、そこから教師が喋っている話だけを取り出して、意味を汲み取ることができない・・・。 

 「あっ、サッカーのときに起きたあの症状とまったく同じ感覚じゃないか」と、僕は瞬時に悟った。それからも必死で教師の話を聞き取ろうとしたが、まったく不可能。これも体育の授業のときと同じだった。

結局、僕は宿題の内容が何もわからず、Hから教えてもらう羽目になった。私語をしていたHは、宿題の内容を正確に聞き取っていた。一方、集中して教師の話を聞こうとしていた僕にはそれが一切できない。訳がわからなかった。 

気のいいHは「お前、ちゃんと先生の話を聞いてたみたいだったけど、実は寝てたのか?」と不審そうに僕を見ながらも、親切に宿題の中身を教えてくれた。僕は「ごめん、ついぼんやりしちゃってさ」と作り笑いで応じつつ、何かよからぬことが自分に降りかかっているのではないかという暗い予感を感じていた。 

「俺をなめてるのか」と怒鳴られて

予感は当たった。この症状が僕の学校生活に及ぼす影響は、時を追うにつれて深刻なものになっていった。 

授業中、周囲の生徒たちが雑談し始めると、それが大きな声でなくても、僕は急に、先生の話していることがわからなくなる。本当に困ってしまい、そのたびに同級生に「静かにしてくれ!」「授業なんだから静かに聞けよ!」などと言うようになった。ときに怒鳴りつけることもあった。 

見方を変えれば、典型的な、教師に媚びる「いい子」の発言である。中学時代にこんなことをやったら、間違いなくクラスで浮き、嫌われる。僕もその例外ではなかった。何人ものクラスメートから「ガリ勉野郎」とか「ゴマすり」などと言われるようになった。まあ、それは仕方がない。 

でも、「仕方がない」では済まなかったのが、教師たちの態度の変化だった。彼らが僕を見る目は、どんどん厳しいものへと変わっていったのである。 

私語をしている生徒を注意するなど、一見、熱心に授業を聞いているようなのに、宿題はよく忘れる。校外学習のときには、教師の事前注意を無視した行動を取り、変なところに迷い込んだり、いなくなったりする。そんな僕は、多くの教師の目に「ふざけた奴」と映り始めていたようだ。 

特に、所属していた陸上部の顧問教師は、あからさまに僕を目の敵にするようになった。無理もない。練習中や練習後に指示を出しても、近くで仲間の誰かが話していると、僕の頭には何も入ってこないのだから。その結果、僕は、顧問教師に言われたことの多くを無視するような形になった。 

ある日の部活動で、校庭を何周か走るトレーニングを終え、一休みしているときのことだった。顔を真っ赤にした顧問教師が僕のもとへ駆け寄ってきて、いきなりこう怒鳴りつけた。 

それとも俺をなめてるのか?」 お前は陸上をなめてるのか?  「奥村!

僕は一瞬、ぽかんとしたが、すぐに事情を悟った。顧問教師は、口頭できちんと指示した練習メニューを僕が無視して、勝手なやり方で校庭を走ったと思い込んだのだ。

もちろん、僕にはそんなつもりはなかった。顧問教師が喋っていたとき、たまたま近くでガヤガヤと雑談に興じている生徒たちのグループがいたので、彼の話が頭に入らなかっただけなのだ。指示が理解できていたら、僕は当然、それに従って練習していただろう。 

僕はたどたどしく、「すみません、他の人たちの話が耳に入ると、なぜか先生の話がよく聞き取れなくなってしまうんです」などと言ってみた。考えてみれば、僕はこのとき初めて、「耳の症状」について人に説明したのだった。 

でも、顧問教師はわかってくれず、「ごまかすんじゃねえ!」「人の話をきちんと聞け!」とひたすら怒鳴り続けた。ひょっとしたら殴られるかと思ったが、そこまではされなかった。その場では黙って罵倒されていたが、学校からの帰り道、ショックと悔しさと孤立感で涙が出てきた。僕はその日限りで、陸上部の練習に出るのをやめた。 

誰一人、わかってくれなかった

この症状は以後、高校生、大学生、そして社会人になってからも変わらず、僕を悩ませることになった。 

人との口約束を破ったり、すっぽかしたりして、信頼を失ったことは数え切れない。正確に言えば、相手は口頭で約束したと思っているのだが、僕の頭には入っていないため、そもそも約束したという認識がない。結果として、約束をすっぽかしたということになってしまう。 

特に、大勢の人がワイワイガヤガヤと話している場で言われた言葉を、僕はほとんど理解していない。表面上は一応、しっかり聞いているように振る舞っているものの、頭の中には入っていない。だから、そういう場所での「約束」の内容をまったく理解していない。 

でも、「約束」をしたつもりの相手は、僕にそんな症状があるとは夢にも思っていないから、「奥村は、相槌を打ちながら俺の話をしっかり聞いていたのに、すっかり忘れやがって、いい加減な奴だ」と立腹してしまう。それが繰り返されれば、僕という人間をまったく信用できなくなっても不思議ではない。 

しかも僕には、前にも述べたように「フォトグラフィックメモリー」という不思議な能力があり、目で見たものを、脳に焼きつけるように丸暗記することができる。そのことを知っている人は周囲に多いから、なおさら、「あいつ、『記憶できない』なんて嘘をつきやがって」となる。 

僕が必死で「多くの人の声が聞こえる中では、特定の人の話を聞き取って理解することができないんです」と訴えても、効果はなかった。僕の説明を聞いてわかってくれた人は、家族を除いて一人もいなかった。

妻の話の意味がわからなくなるとき

ただし、家族でも、僕の症状を完全に理解するのは難しいようだ。以前、それを思い知らされた出来事があった。中学時代から20年あまり経った、ほんの数年前のことだ。 

その日、僕と妻は、自宅のリビングルームで、テレビをつけっぱなしにしたまま話をしていた。ところが僕は、テレビでタレントが喋っている声のせいで、妻の声は聞こえるのだが、話の中身がほとんど頭に入らない。例の症状が出たわけだ。 

妻は、僕がそんな状態になっていることにまったく気づかず、ぼんやりした表情の夫に向かって喋り続けている。僕は結局、妻の話を理解するためにテレビを消した。妻が「どうしたのよ、急に」と聞いてくるので、 

 「知ってるだろう、俺は誰かの話を聞くときに、他の人の声が耳に入ると、相手の言っていることの意味がわからなくなるんだよ。今はテレビのタレントの声のせいで、君の言っていることが全然わからなかった。だから消したんだ」

 「へぇ、私はテレビの音なんてちっとも気にならなかったよ。あなたが私の話を聞き取れてないなんてことにも、まったく気がつかなかった」

 「悪いけど、さっきまで君に何を言われていたのか、全然わかっていないんだよ」

 「え~、ちゃんと聞いてくれていると思ってた。あなた、私の話に相槌を打ったり、笑ったりしてたし」

「ぶっちゃけ、それは反応したふりを適当にしてるんだよ。一緒にいる人に変に思われないための、長年の習慣でね。でも、実は俺の頭にはなんにも残っていない」

 「・・・(絶句)」

以前から僕の症状を知り、理解してくれているはずの妻でもこんな調子である。であれば、家族以外の他人にわかってもらえないのは、不思議でも何でもないことなのかもしれない。 

「自信を持ってください」と医師に言われて

僕を長年苦しめてきたこの症状について、最近、意外な事実が判明した。先日、息子を診察してもらった病院(この連載の 第2回第3回を参照)の医師に、この話をしたときのことである。僕が医師に打ち明けたのは、「歌を聴いても歌詞を覚えられないこと」と「周囲から声が聞こえると、特定の人の話が聞き取れなくなってしまうこと」の二点だった。

医師は、何度も深く頷きながら僕の話を聞き終えると、こう言った。 

 「今、奥村さんが説明してくださった二つの症状の根本には、同じものがあると考えられます。それは『複数の音を同時に耳で聞いたとき、それらの情報を脳内で処理することが困難』という、ASD(自閉症スペクトラム障害)の人によく見られる症状の一つなんです」

つまり僕は、発達障害の一つとして、「聴覚で得た情報を処理する能力に障害がある」ということらしい。しかも、聴覚情報を処理する能力と、視覚情報を処理する能力との差が大きければ大きいほど、深刻なケースになる可能性が高いのだという。その意味では、フォトグラフィックメモリーという高い視覚情報処理能力を持つ僕は、深刻なケースに当たることになる。医師は、 

 「子供の頃、奥村さんは喋り始めるのが極端に遅かったそうですが、その原因も、耳で聞いた情報を脳内で処理する能力に障害があったからだと考えられます」

と説明してくれた。 

いやぁ、非常によく納得できました」  「なるほど、そうだったんですね!

と僕が答えると、医師は温かく微笑みながら、 

 「奥村さん、それだけ聴覚情報処理が大変なのに、よく社会生活を問題なく営めるまでになりましたね。たいしたものです。自信を持ってください」

と誉めてくれた。 

その言葉を聞いたとき、僕はなぜか、何かがスッと吹っ切れたような気分になった。自分を長年悩ませ、苦しめてきた症状の原因はASD、つまり発達障害だった。医師のおかげでそれがはっきりとわかって、なぜか急に晴れやかな気分になり、「これからも自分の発達障害を正面から見つめながら生きていくんだ」と覚悟を決めたのである。 

〈次回に続く〉

2012年12月15日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」
【第8回】 息子を大爆発させた妻の一言

この世が終わるほどのショック

先週の土曜日、その事件は起きた。 

久しぶりにゆっくり寝られる休日の朝なのに、僕は、誰かが叫ぶような泣き声で叩き起こされた。不快な気分で目を覚まし、改めて耳を澄ましてみると、それは息子の泣き声だった。それも、何らかのきっかけで突然パニックに陥ったときに出す声に違いなかった。 

息子にとって休日とは、学校という〈他人と必然的に関わらなければならない場所〉に行かなくてすむ日だ。ASD(自閉症スペクトラム障害)を抱える息子には、何よりも心地よい一日のはずで、いつもなら朝からニコニコと笑顔を絶やさず、終日、機嫌よく過ごしている。 

そんな休日の朝にパニックになっているというのは、余程のことが起きたに違いなかった。しかし、僕はあえてすぐに息子のところに行かなかった。息子と一緒に妻がいるはずだし、僕がびっくりして駆けつけたりすると、彼のパニックの火にさらに油を注いでしまう可能性がある。それよりも、息子がこちらに来るのを待っていた方がいい。 

 「でも、こんな朝早くから、いったい何があったというんだろう・・・」

あれこれ想像を巡らせながら、固唾を呑んで布団の中でじっとしていると、案の定、息子がシクシクと泣きながら寝室に入ってきた。そして僕の前に立つと、自分の身に降りかかったばかりの"大事件"を、しゃくりあげながら説明し始めた。 

 「ねえ、お父さん、聞いてよ。お母さんが『今日の午後、塾に行きなさい』って言い出したんだ」

お前はすでに塾に通っているじゃないか---と僕は反射的に考えたが、息子はそんな父親の思いに頓着する様子もなく、 おいおい、そんなことの何が問題なんだ? 

 「いったい、僕はどうすればいいの~!」

と号泣している。 

息子は今、近所の小さな学習塾に、週に一度だけ通っている。でも、考えてみれば、たしか毎週火曜日の夕方のクラスで、土曜ではなかった。ならば、なぜ、今日の午後に行くという話になったのだろう?

あ、そういえば・・・と急に思い出した。先日、妻が「塾が土曜日の午後3時から4時半まで補習授業をやってくれるのよ」と話していたっけ。でも、それは来週の土曜日のはずだった。僕が、 

土曜に塾に行くのは来週だって聞いてるけど」  「どういうこと?

と尋ねると、息子は我が意を得たりとばかりに、さらに声を張り上げて泣きわめいた。 

 「お母さんが一週間、勘違いしていたんだって。補習があるのは、来週の土曜日じゃなくて、今日だったんだって!」

なるほど、そうだったのか、と納得している父親の前で、息子は再び、 

 「『今日の午後、塾に行きなさい』って言うんだよ。そんなことを突然言われても・・・。どうすればいいんだよ~!」

と叫ぶと、今度は僕の布団に突っ伏しておいおい泣き続けた。物事を実行するのが予定から1分ずれても、苛立ち、激怒する息子である。それが1週間も違うとなると、本人にとっては、この世が終わるほどのショックだろう---。僕はそう考えたが、息子にかける言葉はすぐに思いつかなかった。 

「お母さんは僕のことが嫌いなんだ!」

まもなく、妻が慌てた様子で寝室にやってきて、 

 「さっき、塾から送ってきた資料をもう一度読みかえしたら、補習は来週じゃなくて今日だったの。お母さんが間違えちゃった。ごめんね」

と優しい口調で息子に謝った。 

でも息子は「今日、塾に行くのは嫌だ!」と赤ん坊のように駄々をこねるばかり。妻が何度も謝っても、同じことを延々と大声でわめき散らす。そのしつこさに、いつも穏やかな妻もだんだん苛立ってきたようで、ついポロリと、 

 「間違えたものはしょうがないでしょう。補習なんて、たったの1時間半じゃないの」

と言ってしまった。こうなると、息子はもう大変である。 

おかしいじゃないか。塾に行くのだって大変なんだよ」 だいたいお母さんは、塾で何やるのかを知らないのに、何でそんなことが言えるの? 『たったの1時間半』ってお母さんは言ったけど、『たったの』じゃない。ものすごく長いんだよ! 「何を言ってるんだよ!

そう言い終わると、自分で自分の言葉に興奮したように、息子はまたワッと号泣し始めた。妻もついに堪忍袋の尾が切れたらしく、 

今日は3時にちゃんと塾に行くのよ!」  「泣いたって何も変わらないでしょ。いい?

と吐き捨てるように言うと、大きな音を立ててドアを閉め、部屋を出て行ってしまった。その間、僕の存在など彼女の意識からは消えていたらしく、こちらには一瞥もくれなかった。 

そんな妻の姿を息子は呆然と見送ると、今度は僕を睨みつけるようにしてこう言った。 

 「お母さんは自分が間違えたのに、僕が悪いみたいに言うんだよ。お母さんは僕のことが嫌いなんだ!」

僕はさすがに「そんなことを言っちゃいけないよ。お母さんが君のことを嫌いなわけがないだろう」と諭したが、息子は収まらない。顔を真っ赤にして、 

『たったの』って。なんでああいう言い方をするの!」 何なの?  「お母さんは『たったの1時間半』って言ったんだよ。お父さんも聞いてたでしょ?

息子の怒りは、予定が変わって急に塾に行かされそうになったことだけでなく、妻が「たったの1時間半」と言ったことにも"延焼"していた。「たったの」という言葉を使われたことに執拗にこだわり、それに対する不満を爆発させ続けるのだった。 

 「これは大変なことになった・・・」

僕はぼんやりと思いながら、なすすべもなく、血相を変えて怒りの言葉を吐き続ける息子の姿を見つめていた。 

普通の人にはただの予定変更が、息子には深刻な問題

この連載の第1回などでも述べたように、息子も僕も、想定外の出来事に対応するのが極端に苦手だ。そのことは、医師から「ASDの人にありがちな傾向です」と言われている。 

今回のケースは、息子にとってきわめて深刻な「想定外の出来事」だったに違いない。しかも悪いことに、前夜、勘違いに気づかぬまま、僕と妻は「明日は公園に行って、一日中、思いっきり遊ぼうよ」と息子に提案し、大喜びされていたのである。 

このとき、息子の中では「土曜日は一日中、公園で遊んで過ごす」という計画ができ、実行すべきものとしてしっかりと意識に刻み込まれた。その計画が、今朝になって突然、変更になってしまったのだ。そこで息子は、パニックを起こした。

もちろん、公園行きが完全にゼロになったわけではない。僕も妻も、午前中から午後の早い時間帯までは、最初の予定通り、公園に行って遊ぼうと考えていた。そこに変更はない。予定と変わるのは、午後3時からの1時間半という時間だけだ。 

でも、息子にとっては「午後遅くの1時間半の予定が変更になったこと」だけでも、天地がひっくり返るほどの一大事なのである。普通の人にとっては「たったの1時間半」であっても、「公園ではまた別の日に一日中遊べばいいじゃないか」とか「今日はとりあえず午前中から3時前まで遊ぶくらいにしておこうよ」となだめられても、息子は一切納得しない。ASDを抱える彼にとって、「今日、予定通りに一日中公園で遊べなくなったこと」が大問題なのだ。 

 「息子がパニックに陥るのも無理はないな・・・」

同じASDを抱える僕は、ひそかに息子に同情した。正直に言えば、「俺も同じ立場に置かれれば、同じような反応を示すかもしれない」と思ってしまったのだ。もちろん、憤懣やるかたなしといった様子の妻の前では、それは口に出さなかった。 

それまでの号泣が嘘のように破顔一笑

このように説明すると、塾に行くのを嫌がる息子を、僕たち両親が無理やりに通わせているかのように思われるかもしれない。でも、事実はその正反対だ。 

息子は塾に行くことが嫌いではなく、むしろ楽しんでいる。毎週一日、いつも嬉しそうな表情で通っている。 

今回の補習の件も、最初、妻から聞いた息子は、「土曜日にも授業があるのか。面白そうだね」と言って、自分で手作りしたスケジュール帳の来週土曜日の欄に、太いペンで「補習」と書いていた。明らかに、補習の授業を心待ちにしている様子だった。妻はその様子を覚えていたから、 

 「嬉しそうにスケジュール帳に書いていたのに、いくら予定が1週間早くなったからと言って、なぜあんなに怒るのかしら」

と愚痴ったが、息子にとって、それが楽しい行事かどうかはまったく関係ないのだ。「突然、スケジュールが変わったこと」だけが問題なのである。 

おそらく、僕が同じような事態に直面しても、やはりパニックに陥っただろう。怒りをあらわにしたかどうかはわからないが、かつて医師から「大人の発達障害」だと診断されたときと同じく、心臓は激しく鼓動し、全身から汗が出て止まらなくなったと思う。

僕は、息子が陥っていると思われる心理状態を妻に説明し、「今日、塾に行かせるのは絶対に無理だと思う。俺にも同じようなところがあるからわかるんだよ」と告げた。妻も「わかった。しょうがないよね」と納得してくれた。 

そこで息子を呼び、「今日は塾の補習に行かなくていいよ」と告げた。すると、彼はそれまで泣きわめいていたのが嘘のように破顔一笑し、愛くるしい笑顔を見せて、何事もなかったかのように朝食をおいしそうに食べ始めた。いつもの穏やかな休日がようやく始まったのである。 

自分にも同じようなところがあるとはいえ、いったい今の騒ぎは何だったのだろうと僕は思った。妻は僕にこっそり目配せしながら、小さく溜め息をついた。 

信号を渡る時刻を分単位で決める

事前に立てた計画にこだわり、それが変更になると激しいパニックに陥る僕たち親子。同じような傾向を持つASDの人は、医師に言わせると、「時間に強い執着心を持つタイプ」が多いらしい。 

確かに、息子にはそれがきっちりと当てはまる。前述の通り、彼は週に一度、学習塾に通っている。通い始めるとき、僕は安全上の問題を考え、息子と相談して、家から塾までのルートを決めた。「○○通りを進んで三つ目の信号を左に折れ、さらに100m先の横断歩道を渡って・・・」というふうに、歩く道を細かく決めたのだ。 

息子はそれを完璧に守っている。ただし、ルートだけでなく、途中のいくつかのポイントを通過する時刻もいつのまにか決めてしまい、やはり毎回、それを分単位できっちりと守ろうとする。たとえば「○○通りの三つ目の信号を渡るのは午後4時13分」と決めて、必ず4時13分きっかりにそこを渡ろうとするのだ。もし、それが1分でも遅れたら、大変なことになる。 

 「もう駄目だ、遅刻しちゃう!」

とパニックになって叫び始め、僕や妻がどれだけ「大丈夫、遅刻しないよ」「時計を見てごらん、十分に余裕あるよ」などとなだめても聞く耳を持たず、猛スピードで走り出す。そのたびに、僕たち大人はひいひいと息を切らせながら、後を追いかけていく羽目になる。 

定刻から遅れるバスが許せなかった

でも、振り返ってみると、こんなことを言っている僕も、子供の頃から息子と同じくらい、あるいは息子以上に時間に細かかった。 

自分の中の「時間への強いこだわり」に気がついたきっかけは、高校に入学して、バス通学を始めたことだった。バス通学のせいで、僕は毎日、登下校のたびにパニックを起こしかけていたのである。理由は簡単。バスが定刻通りにバス停に来ることはほとんどなかったからだ。 

今でも覚えている。僕は、家から2分歩いたところにあるバス停から、毎朝7時21分のバスに乗って学校に向かった。学校の前のバス停まで、時刻表通りになれば18分で着く。家から学校までの距離は約10㎞で、歩くには長かった。そのため、バス通学を選んだのだ(自転車通学は禁止されていた)。 

下校時はいつも、学校前のバス停を午後3時55分に出るバスに乗って帰宅していた。ところが、この3時55分発のバスがくせもので、僕を高校の3年間、ほぼ毎日、苦しめたのだった。 

このバスが定刻通りにバス停に来たことはほとんどなかった。5分や10分くらい遅れるのは当たり前だった。ひどいときは、30分近く遅れることすらあった。なぜこんなことが起こるのか、なぜこんなことが許されるのか、僕にはさっぱりわからなかった。 

僕は昔も今も、どんなことであっても、「定刻から遅れる」ということが嫌いだ。だから当時、高校の前のバス停に3時55分にバスが姿を見せないと、僕の心の奥底から急速に苛立ちがこみ上げてきて、あっという間に全身を支配してしまうのだった。頭を激しくかきむしりたくなる。「うわぁーっ!」と大声で叫びたくなる。そんなふうに、苛立ちのあまり、自分で自分を破壊してしまいそうな、強烈な感情が噴出してくるのだ。 

バスがようやく遠くに姿を現し、のろのろとバス停までやってきても(僕はときどき、運転手がふざけて故意にゆっくり運転しているのだと信じていた)、パニックは収まらない。バスに乗ってからも、苛立ちはつのるばかり。なぜなら、途中のバス停を通過するたびに、「このバス停では定刻から何分遅れているんだろう」という風に、やはり時間が気になって仕方がなかったからだ。 

僕は自分でも、この感情を持て余していた。しかし、どう抑えよう、どう忘れようとしても、火山から溶岩が噴出するように、苛立ちは心の奥から湧き出てくるのだった。 

悩んだあげく、一度だけこの感情のことを同級生に打ち明けてみたが、まるで相手にされなかった。 

 「バスなんか、最初から時間通りに来ないものだと思っていればいいんじゃないの?」と言われ、「そんなくだらないことに怒っても仕方ないだろ」と軽くいなされてしまったのだ。

確かに同級生の言う通りだ。理屈ではわかる。しかし、そう自分に言い聞かせて感情をコントロールしようと試みても、腕時計の針が3時55分を指し、そのときにバスが見えないというだけで、僕の心には不意に巨大な波が立ち始めるのだった。自分でも不思議でならなかった。 

葬儀の日も勉強と運動を計画通りこなした

そんな僕には、もっと以前の小学生くらいの頃から、夏休みなどの長期休暇に入る前、必ず行う習慣があった。 

どれだけ休暇が長期間に及んでも、事前にその間の一日一日のスケジュール表を、30分刻みで作成するのだ。毎日必ずやる習慣などを"通し"で書くのではない。文字通り、一日ごとにやることを考えて、前もって記していくのだ。 

たとえば中学2年生の夏休み、8月某日のスケジュール表(午前中の分)は、こんな具合だった(当時のスケジュール表を見ながら書いているのではなく、僕の記憶に鮮明に残っている)。 

5時30分布団の上で腹筋100回 起床  
5時30分~7時15分数学の勉強:   教科書3ページ、チャート式問題集4ページ
7時15分~7時45分朝食  
7時45分~8時15分読書(夏目漱石の『坊っちゃん』。夏の読書感想文の課題図書だった)  
8時15分~8時30分朝の連続ドラマを見る(タイトルも覚えている)  
8時30分~10時虫捕り(家の近くに大きな森があった)  
10時~11時テレビドラマの再放送を見る  
11時~12時国語:   教科書4ページ

正午から就寝までのスケジュールは省略するが、午後はひたすら身体を鍛える時間にした。もちろん、日ごとに異なる具体的なメニューを作成した上で、それに沿ってトレーニングをする。たとえば、14時から腕立て伏せ100回、17時からはランニング10㎞、翌日は14時からストレッチ、15時から50mダッシュ30本・・・という具合である。 

僕は、長期休暇のたびに日単位のこういうスケジュールを立て、絶対に守った。何があっても、計画通りにできないことは避けたかった。 

高校2年の夏休みのある日、父方の祖母が亡くなった。急遽、通夜と告別式を行うことになり、僕のスケジュールは大幅な変更を余儀なくされそうになった。もちろん、テレビ番組を見るなどの予定は吹っ飛ぶのもやむを得なかったが、勉強のスケジュールは何としても死守したいと思った。 

僕は葬儀場に教科書や参考書を持ち込み、机と椅子を借りてそれらを広げ、通夜の場で、事前に立てた勉強の計画をやり遂げた。酔っ払った親戚のおじさんたちから、「本当に勉強熱心だな」と、呆れたような感心したような声をかけられたのを覚えている。 

僕は決して勉強熱心ではない。はっきり言って勉強は嫌いだった。でも、事前に立てた計画を崩すことはもっと嫌いだ。だから、祖母には申し訳ないとも思ったが、仕方がなかった。 

翌日の告別式では、遺族席の後ろの方でこっそり腹筋運動を100回した。隠れてやったつもりなのだが、親族が揃って頭を下げた瞬間に僕の姿を見て、ギョッとした表情になる弔問客もいた。葬儀の席で、制服姿の高校生が思い詰めたような顔で腹筋運動をしていれば、誰だって驚くだろう。 

こんな風に、同じ傾向を持つ息子と僕は今、年末年始のスケジュールを一緒に立てている。計画を立てるのが好きでたまらない僕たちにとって、これは至福の時間以外の何物でもない。 

しかし、何かの事情でそれが達成できなかったとき、二人ともパニックを起こし、怒りまくり、親子の間に修復不可能なほどの亀裂が入ってしまうのではないかと恐れおののいていることもまた事実なのだ。僕はただ、そうならないようにと祈るしかない。 

〈次回に続く〉

2012年12月22日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第9回】
まったく悪気なく「ひどいこと」を言ってしまう理由

息子の喜ぶ顔が見たくて、得意料理を作ってみた

この前の日曜日、僕は朝から台所に籠もり、食材と格闘を続けていた。 

ジャガイモ、にんじん、タマネギと順番に皮をむき、適当な大きさに切り分けると、鍋に次々と放り込んでいく。フライパンで牛肉を軽くあぶり、それも鍋に入れる。そこに水とルーを加え、灰汁をすくい取りながら煮込んでいけば、出来上がり。僕は、家族のために、カレーを作っていたのだ。 

と言っても、僕はもともと、家事にそれほど熱心な方ではない。内心、妻に「負担をかけて悪いな」と後ろめたく思いながら、多くを任せてしまっている。特に、料理はめったにしない。 

ひどく不器用なので、レシピ通りに作ったつもりでも、似ても似つかぬ料理になってしまうことがほとんどだからだ。「想定外の事態」に直面するのが何よりも嫌いな僕にとって、好ましいことではない。 

でも、たった一つだけ例外がある。それがカレーだ。 

学生時代、自分で何度も失敗しながら工夫を重ねた結果、極めて簡単で、しかも再現可能なレシピを確立することができた。そう、何度料理しても、同じ時間で同じ味の、結構おいしいカレーが作れるようになったのである。これは、「物事が計画通りに進むこと」に無上の喜びを感じる僕にとって、本当に嬉しいことだった。 

そんな話を前日の午後、家族でお茶を飲んでいるときに話したところ、息子が急に「へぇ、そうなの。僕、お父さんのカレーを食べてみたいな」と言い出した。可愛い息子のたっての願いである。しかも翌日は、うまい具合に日曜日ときている。 

「よし、おいしいのを作ってやるぞ」と僕は張り切って答えた。さっそく、いつもこれと決めている食材(と言ってもジャガイモ、にんじん、タマネギ、牛肉だけなのだが)を妻に買ってきてもらった。

そして日曜の朝、朝食を食べるとすぐ、気合を入れてカレー作りに取りかかった。ジャガイモの皮むきから始めて、煮込みの終了まで3時間半。ちょうどお昼に食べられるようにカレーが完成するはずだった。僕は、息子が「おいしい、おいしい」と大喜びでカレーを頬張る姿を脳裏に思い浮かべながら、ルーの表面に浮かんでくる灰汁(あく)を取り続けた。 

殴られたようなショック

テレビで正午の時報が鳴った直後、僕のカレーは完成した。 

煮込んでいる間、料理に使った包丁やボウルは全部洗ってしまったので、台所はピカピカだ。息子は妻と一緒にテーブルにつき、「お父さん、早く食べたいよ~」と急かしてくる。それが何とも嬉しく、息子が常にもまして愛らしく思える。 

僕は「さあ、できたよ」と一声かけると、息子と妻の皿にご飯とカレーをたっぷりと注ぎ、いそいそとテーブルへ運んだ。息子は「うわぁ、おいしそうだね」と相好を崩すと、大きな声で「いただきます!」と言って手を合わせた。そして、スプーンでカレーとご飯を少し混ぜ、パクリと一口。 

僕は「どうだ、おいしいか?」と聞いてみた。事前に味見をした限り、うまくできているはずだ。妻はすぐに「おいしいね」と誉めてくれた。あながちお世辞でもなさそうだ。 

ところが、息子からは何の反応もない。小さい口をもぐもぐさせながら、じっと何かを考えている。僕は、自分の分を食べるのも忘れて、息子が「おいしい!」と感想を言うのを待っていた。 

しかし、息子の口から出たのは意外な言葉だった。 

 「お母さんのカレーの方がおいしいよ。お父さんのカレー、イマイチだね」

僕は、いきなり棒で殴られたようなショックを受けた。思わず、「うへっ」と変な声を出してしまったくらいだ。息子は、自分の発した言葉で父親が腰を抜かしそうな衝撃を受けたことに気づく様子もなく、「イマイチ」と評したカレーを黙々と食べ続けていた。 

息子を喜ばせようと張り切って作った分、かなりこたえた。妻が同情を込めた視線を僕に送ってくるのがわかった。しかし、呆然としている僕には、それに目配せで応じる余裕もなかった。 

なぜ「空気が読めない」と言われるのか

言うまでもないことだが、息子にはまったく悪気がない。ただ、「思ったこと」をそのまま口に出しただけなのだ。 

このときの息子の思考回路を、同じASD(自閉症スペクトラム障害)を持つ僕が推測してみたい。 

弁解する訳ではないが、僕が作ったカレーはそれなりにおいしいと思う(現に妻も誉めてくれた)。しかし、息子の頭の中で、「おいしいカレーの味」は、普段食べている「お母さんのカレーの味」と完全にイコールで結ばれている。それ以外の味は一切、「おいしいカレーの味」とは認識されない。つまり、妻が作ったカレーと同じ味でなければ、すべて「おいしくない=イマイチ」のカレーになってしまう。

これはカレーに限らない。超一流のシェフが腕によりをかけて作った豪華な料理でも、あらかじめ頭の中で「おいしい味」と決めているものと合致しなければ、息子には「おいしくない」で片づけられてしまうのだ。 

そして、ここからもまたASDの特徴的な点なのだが、息子は、事実だと思ったことについて、相手の気持ちを忖度(そんたく)して発言するということができない。つまり、思ったことを、何かしらのオブラートに包んで相手に伝えるという能力が欠如しているのだ。言い換えれば、本音と建前を使い分けるとか、場の空気を読んで発言するといったことが一切できない。 

したがって、息子の中では、「おいしいカレーの味はお母さんのカレーの味だけ」→「お父さんのカレーはお母さんのカレーと味が違う」→「お父さんのカレーはイマイチ」→「お父さんのカレーがイマイチなのは事実だから、そう口に出す」、という具合に思考と言動が進んでいくのだろう。しかし、作った側(つまり僕)は、カレーの味に自信があっただけに、大きなショックを受けてしまう。 

ひどいなあ。他に言うことはないのか?」と聞いてみたかった。しかし、それはすぐに思いとどまった。息子はきっと、 実際、僕も息子に対して、「君に『食べたい』と言われて3時間半も料理したのに、その感想が『イマイチ』なの? 

お父さん、僕に嘘をつけというの?」  「お父さんのカレー、本当においしくないんだよ。おいしくないのに『おいしい』と言えってこと?

と逆ギレするだろうと考えたからだ。 

こういう独特の思考と言動の回路こそが、発達障害の人が「空気を読めない」とか「他人の気持ちがわからない」などと言われたり、「他人とコミュニケーションを取るのが苦手」と決めつけられたりする原因になっていると僕は思う。 

僕には「場が気まずくなる理由」がわからない

息子と同じASDである僕にも当然、同じような思考回路がある。 

そのことを改めて思い知らされたのは、ある日の深夜、テレビで一人、「大人の発達障害」を特集した番組を見ていたときのことだ。僕は医師から「大人の発達障害」だと告げられてから、意識的に、この問題を扱った本や雑誌記事を読んだり、テレビ番組を見たりするよう努めてきた。 

そんな番組の一つで、クイズのような「問題」が紹介された。僕は自分なりにその答えを考え、次に正解とされたものを見て、「自分の思考回路は多くの人と異なる」という事実を改めて突きつけられたのである。 

この問題は、医師が、患者が「大人の発達障害」かどうかを判断するときに使うものだということだった。僕なりにまとめると、以下のような内容になる。 

【問題】

まず、次の文章を読んでください。

「Aさんという女の子の家に、おじさんが遊びに来ました。Aさんは、おじさんに食べてもらおうと思って、お母さんに手伝ってもらい、チーズケーキを作り始めました。

作りながら、Aさんは、食卓で待つおじさんに言いました。 

『私、おじさんのためにチーズケーキを作っているのよ』

おじさんはこう答えました。 

『ケーキは大好きだよ。チーズが入っているのはダメだけどね』

Aさんも周りの人たちも黙ってしまい、その場の雰囲気は一気に気まずくなりました」

ここで質問です。この場を気まずくさせたのは誰だと思いますか?

この問題を読んだとき、僕は答えがわからなかった。と言うより、そもそも、なぜこれが問題になるのかが理解できなかった。 

 「誰も気まずくなんかさせてないだろう」と考えたのである。問題の文章のような経過をたどった結果、その場が気まずくなることなど、想像もできなかった。

ただ、しばらく考えて、きっと答えは「おじさん」なのだろうなと思った。それは、僕がこれまでの人生で、必死で「学習」を重ねてきたから推測できたことだ。 

誰かが善意で、他人のために何かをしてあげるとき、そうしてもらう側の人は、その行為に対し、いささかなりとも文句を言ったり、批判的な感想を述べたり、注文をつけたりしてはならない。仮にその行為に欠けているところや、部分的な問題があっても、一切指摘してはならず、全面的に感謝と誉め言葉を述べなければならない。そうしないと、場の雰囲気が悪くなり、人々の怒りを買う---。

このことを、僕は十代の頃からさんざん失敗と試行錯誤を繰り返して、学んでいた。ただし、あくまで「知識」として「学習」したのである。 

「学習」の結果、空気が読めるふりができるように

考えてみると、僕も十代の頃までは、料理を作ってくれた人に「まずい」とか「これ、嫌い」などと平気で言う人間だった。それを周囲の人たちに注意され、叱られるうちに、「どうやら、何かをしてもらっているときは、少しでもそれについてネガティブなことを言ってはいけないらしい」ということを推測し、理解し、後天的に身につけたのである。 

テレビ番組の話に戻ると、やはり問題の正解は「おじさん」とのことだった。出演者の一人が、「『大人の発達障害』の人には、正解がおじさんだとわからないケースが多いそうです」と説明していた。 

その通りだ。正直に言うと、なぜおじさんの言葉が他の人を気まずい思いにさせてしまうのか、その理屈が僕には今もさっぱりわからない。おじさんは事実を言っているだけではないか。 

もし、Aさんが本気でおじさんを喜ばせたいのであれば、おじさんがチーズを苦手にしていることを事前に調べておくべきだ。少なくとも、作り始める前に、「チーズケーキは好き?」という質問くらいしておけばいいではないか。簡単なことだ。それを怠った方が悪い。 

Aさんの行動は所詮、おじさんへの善意の押し売りに過ぎない。本当のことを正直に言ったおじさんが「空気が読めない」という理由で責められるのは、筋違いだと思う---。 

でも、そんな本音を口に出してしまえば、周囲から変な目で見られたり、怒られたり、敬遠されたりする。そのことを、僕は子供の頃から嫌というほど経験してきた。だから、こういう問題に出くわしても、少し考えれば、今なら「正解」を答えられるようになった。 

しかし、僕がその「空気が読めるふりができるレベル」にたどり着くまでには、前述のように、多くの「学習」が必要だった。そのために長い期間、他人が理解できない(らしい)努力を続けてきた。発達障害と無縁の人には奇妙に思えるかもしれないそれらの思い出を、次回は紹介していこう。 

2012年12月29日(土) 奥村 隆 

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第10回】
バレンタインデーの恥ずかしい勘違い

昼休みを潰して給食を食べ続けた

僕は子供の頃、ある言葉や言い回しを聞いたとき、他人とはかなり違う意味に受け取ってしまうことがよくあった。そして、その間違いになかなか気づかず、かなり時間が経つまで自分の解釈が正しいと思い込むのだった。 

小学校2年生のときだったか、給食の時間、担任の先生が僕たち児童に向かって「給食は最後まで食べなさい」と言ったことがあった。僕はこの言葉を、「教室で給食を食べている最後の一人になるまで食べ続けなさい」という意味だと受け取った。さっそくその日から、極端に遅いペースで食べることにした。 

パンもおかずもほんの少しずつ口に運び、ゆっくりと何十回も噛んでから呑み込む。それを何度も何度も繰り返す。やがてクラスメートは給食を食べ終わり、次々と校庭に飛び出して昼休みの遊びに興じ始める。教室に残ってお喋りに花を咲かせる子供たちもいる。その中で、僕だけは昼休みを潰して延々と食べ続け、結局、「最後まで食べている児童」になる・・・。 

そんなことを、僕は毎日繰り返した。そして、もくろみ通り、「教室で給食を食べている最後の一人」になると、計画が達成できたことで大きな満足感を覚えるのだった。昼休みに遊びたいなどとは、みじんも思わなかった。 

ところが数ヵ月後、ひょんなことで、先生の「給食は最後まで食べなさい」という言葉の意味が、「給食は残さず全部食べなさい」であることがわかった。僕は子供心に、自分がひどく無駄なことをしていたように思い、虚しくなった。翌日からは早食いに転じ、ほぼ毎日、クラスで最も早く給食を食べ終えると、昼休みは校庭に出て行くようになった。 

同じ頃、算数の授業中に、先生が黒板に式か何かを書き、それを指差して、「ここに注意しなさい」と強調したことがある。僕は、「ここ」というのを「先生の指先」だと思い込んだ。そこで、先生の指先をじっと見続けた。 

チョークを持ったり、窓を開けたり、尻を掻いたり、鼻をほじったりする先生の指から、僕はずっと視線をそらさなかった。他のクラスメートが下を向いてノートを取っている間も、先生の指を見つめるのをやめなかったので、さすがに不審に思ったらしい先生が「どうした?」と聞いてきた。僕は瞬間的に「何か勘違いをしたらしい」と気づいて、他の児童と同じように下を向いてノートに適当なことを書いた。 

しばらくして、その話を隣の席の女の子にしたところ、「奥村君、『ここ』が指なわけがないでしょ。先生は、黒板に書いた式のことを言ってたんだよ」と呆れられ、初めて自分の間違いを知った。

その女の子には「バカじゃないの」と笑われもしたが、別に悔しさは感じなかった。むしろ、他に似たような勘違いをする子が一人もいなかったので、「みんな、どうして『ここ』と言われて指だと思わないんだろう?」と首をひねった記憶がある。 

「なぜ0点を取ったの?」と悪意なく質問

医師に聞くと、この種の勘違いは、僕や息子のようなASD(自閉症スペクトラム障害)の人間には珍しくない症状なのだという。 

普通の人なら自然に理解できる「言わずもがなのこと」について、まったく違う意味だと思い込んだり、記憶が完全に抜け落ちてしまったりすることが多いらしい。でも、本人は勘違いしているつもりは皆無なので、周囲が気づいて指摘してくれない限り、延々と「おかしな行動」を取り続けることになる。そこが非常に悩ましく、誤解されやすいところだと思う。 

こういった僕の「おかしな行動」も、他人に迷惑をかけたり、他人から嫌われたりする原因になることがよくあった。 

僕は小学校時代、授業でテストの答案が返ってくると、非常に悪い成績(たとえば0点やそれに近い点数)を取った同級生のことが気になって仕方がなかった。と言っても、別にバカにしてやろうとか、からかってやろうなどと底意地の悪いことを考えたわけではない。ただ頭の中で、「どうして彼はあんな点を取ってしまうのか?」という純粋な疑問が芽生え、どんどん大きくなっていっただけなのだ。 

 「○○君はなぜあんな問題で0点を取るのだろう?」「いったいテストのどこがわからないのだろう?」・・・と、悪い成績の理由を知りたいという気持ちばかりがどんどんエスカレートしていく。そして、その理由がわかれば、○○君に、どうすれば成績が良くなるのか教えてあげたい---とまで考えてしまうのだった。

ある日、近くの席に座っていた男子児童が、0点の答案を返されて、「テストなんてわかんないよ!」と叫んでいたことがある。僕は「聞くのは今だ!」と思い、「ねえ、なんでテストができなかったの?」「なんで0点なんか取っちゃったの?」「最初の問題なんて簡単だけど、どうして解けなかったの?」と畳みかけるように尋ね、「教えてあげようか」と言った。 

相手は「できねえ理由なんて知らねえよ。別にお前に教えてもらいたくねえよ」と答え、後はふくれっ面をして黙ってしまった。今にして思うと、子供ながらに彼は屈辱を感じていたのだと思う。

しかし僕は、そんなことにはお構いなしに、以後、悪い点数を取った同級生たちにその理由を尋ねて回り、「教えてあげるよ」を連発した。彼らの大半は、嫌な顔をするか、断るか、僕を無視するかのいずれかの反応を示した。 

これら一連の行動は、僕が教室で一部の同級生から「嫌われ者」になる理由として十分だった。しかし、困ったことに、このときの僕の言動の背後には悪意も嫌みもなく、ただ、「相手がうまく行っていない理由を聞いて、うまく行く手伝いをしてあげたい」という好意しか存在しない。 

だから、まさか相手に嫌われているとはまったく思わなかった。その結果、僕は日々同じような行動を繰り返し、クラス中を引っかき回すようになったのだ。 

ハイ!」を連発 先生が指してくれるまで「ハイ!

迷惑を被ったのは僕の母だった。 

小学生時代の僕は、成績はだいたいいつもクラスの上位で、スポーツも得意だった。こういう子供は、学校や先生から「しっかりした児童」として扱われ、概ねポジティブに評価される。親は晴れがましい気持ちで父母会に行くことだろう。 

しかし、僕の母はそうではなかった。父母会に出席すると、担任の先生から息子(僕)のことを誉められるどころか、「いつも嫌味を言われるのよ」とこぼしていた。結局、母は僕が小学校を卒業するまで、「父母会に出席するのは嫌だ」と言い続けた。後になって聞いたところでは、担任教師だけでなく、他の母親たちからも、「奥村君って、うちの子に勉強を教えてくれるって言ったそうじゃない。さすが余裕あるわねえ」などど嫌味を言われ続けたそうだ。 

ある日、小学校の父母会から帰ってきた母が、僕にこう聞いてきた。 

先生に言われたよ」  「お前、授業中にうるさくしているんだって?

 「そんなことないよ。ちゃんと授業を聴いているよ」

『奥村君のせいでクラス中が勉強にならない』って、先生にも他のお母さんたちにも文句を言われたよ」 「でも、先生が問題を出すと、お前は指されてもいないのに答えを言っちゃうんだろ?

僕はもう、『指されてもいないのに答えを言う』なんてことはしていないよ。先生に怒られたからね。  「違う!

』と大きな声を出しているだけ。答えは、先生に指されてから言っているよ。まあ、だいたい全部、僕が答えることになるけど」 ハイ! 今は問題を出されたら、すぐに『ハイ!』と手を上げて、後は先生が指してくれるまでずっと『ハイ! 

 「・・・」

母は絶句してしばらく考え込んでいたが、最後は苦笑いしながらこうアドバイスしてくれた。 

 「お前は間違ったことをやっているわけじゃないよ。でも、全部お前が答えちゃうと、他の子たちが答えられなくなるでしょ。だから、先生が出す全部の問題に手を挙げるんじゃなくて、2回に1回くらいの割合で手を挙げるように、(頻度を)減らしてみたらどう?」

お母さんがそう言うなら従おう、と僕は思った。母はいつだって、僕の「おかしな行動」の理解者だった。 

と言っても、母は僕を甘やかしていたわけではない。むしろ子供には厳しい方だったと思う。たとえば母は、僕が少しでも勉強やスポーツで手を抜けば、烈火のごとく怒った。 

ところが、僕の「発達障害を持つ者に特徴的な行動」に対しては、誉めはしないけれども、叱ることは決してなかった。いつも「先生もその程度のことで怒ることはないのにね」などと言った上で、具体的な対応策を指示してくれたのだ。今考えると、その指示は常に的確だった。 

なぜ、今から20年以上も前の、まだ発達障害やASDが一般的によく知られていなかった時代に、母は的確な指示を出し続けることができたのか。その理由を、僕は最近、思わぬ出来事をきっかけに知ったのだが、それについては後述することにしたい。 

 

「授業で一切発言するな」と命じられて

次の日、僕が登校すると、先生がさっそく話しかけてきた。 

 「昨日の父母会でお母さんには言っておいたけど、君は授業中に手を挙げすぎるんだ。これからはあんまり上げず、他の人たちにも発言させなさい」

僕は答えた。 

 「うん。お母さんに言われたから、先生が問題を出すときの2回に1回しか手を挙げないことにした」

 「よし、約束だ。破るなよ」

先生はそう応じて、満足そうにうなずいた。 

しかし、その後も、同級生の母親たちからのクレームは収まらなかったという。なぜなら、やはり「2回に1回しか手を挙げない」というルールを厳密に守るのは難しく、僕は気分が乗ってくるとどうしても約束を忘れ、何問か続けて「ハイ!」「ハイ!」とやってしまうのだった。その結果、クラスでは、答えの大半を僕が言うという従来通りの事態が続くことになった。 

業を煮やした先生は、「奥村は授業中、絶対に手を挙げてはいけない」と厳命した。僕はそれに従ったが、指された児童が間違ったことを答えると、「違う、正解は○○だよ」という具合に、脇から大声で訂正するようになった。ほとんど野次を飛ばしているようなものだ。 

先生はさらに怒り、「奥村は授業を聞かなくていい。発言もしてはいけない」と命じた。僕も、先生の言いつけに従わなければならないというのは理屈ではわかるのだが、いざ問題が出て、答えがわかると、席に座ったままでも反射的に叫んでしまう。 

最後は先生が、「奥村は、授業では一切黙っていろ。静かにして、他の同級生の邪魔をしなければ、授業中に漫画を読んでいようが、廊下で遊んでいようが、何をしていても構わない」と言い出すという、何だかとんでもないことになってしまった。 

先生はほとんど教育を放棄しているようなものだが、当時は、そんな大きな問題だとは思わなかった。僕は言われるがままに、教室を出て廊下をぶらついたり、図書室に行って本を読んでみたりしたが、あまり面白いとは思わなかった。授業に参加する方が断然楽しかった。

善意で行動しているのに、嫌われてしまう

今から1年ほど前、母とあれこれ思い出話をしているとき、偶然、このときのことが話題に上った。 

 「あのときの教師の対応はあまりにもひどかった。いくら僕がうるさかったとはいえ、児童を授業からシャットアウトするなんて、今なら大問題になるよ」

言ったところ、母は「う~ん」と唸った後で、 

 「いや、仕方なかったと思うよ。お前にあれほど騒がれては、ほとんど授業にならなかったろうし」

と、意外にも教師の行動に理解を示した。そして、ポツリと付け加えた。 

 「親としては、先生にあれだけひどいことを言われたり、されたりしても、お前が気にせず、学校に行ってくれたことが何よりよかった。そのことは本当に助かったと思う」

正確に言うと、僕は自分に対する教師の言動をまったく気にしていなかったわけではない。なぜあんな対応をされるのか、理解できなかったのだ。

きっと深く傷つき、なかなか立ち直れなかったと思う。 もし僕が、教師にあんな対応をされた理由(つまり、僕自身の悪意なき言動が周囲から顰蹙を買い、嫌われているということ)を知ったら、どうなっていただろう? 

実際、中学に入ってから、僕は自分が悪意なく(むしろ善意で)行動しているのに、それが人から嫌悪されるということに気づき、相当なショックを受けたことがある。本で読んだのだが、小学校時代の僕のように、学校で他の生徒に理解できない言動を取り続けたせいでいじめに遭い、不登校になってしまった発達障害の子供たちがいるそうだ。気の毒でたまらない。 

僕が深刻ないじめなどに遭わなかったのは、やや鈍感で図々しかったのと、母親が僕の、発達障害に特徴的な言動を否定しなかったおかげだと思う。その意味で、発達障害の子供の成長には、周囲の理解が極めて重要だろう(もう一つ、僕にとって幸いだったのは、授業態度が悪いながらも試験の成績は良く、スポーツもできたため、一目置かれていたということもある)。

ハイ!」と挙手し続けたりするような言動は、ADHD(注意欠如・多動性障害)という発達障害の典型だと言われた。どうやら僕は、ASDに加えてADHDでもあるらしかった。 ちなみに医師からは、小学校時代の僕の授業態度、つまり、先生からの問いが終わる前に答えを言おうとしたり、指されるまで「ハイ! 

ADHDの人は、成人してからも、「相手の話が終わるのを待っていられず、話し始めてしまう」という傾向が強いらしい。確かに、僕は今でも「人の話を最後まで聞け」と周囲の人からよくたしなめられる。 

「僕も女にモテるはずだ」と確信する

小学校時代の話に戻ろう。当時の僕には、どうしても理解できない年中行事があった。バレンタインデーである。 

僕は、バレンタインデーというのは「女の子が好きな男の子にチョコレートを渡す日」だと理解していた。それに間違いはなかったはずだ。でも、その先が問題だった。 

小学校6年生の頃だったと思う。当時、僕が授業中に読んでいた漫画には、スポーツ万能で、成績が良くて、背が高い男の子が登場し、たくさんのチョコレートをもらっているシーンが描かれていた。彼の下駄箱は、バレンタインデーには女の子からもらうチョコレートではち切れんばかりになる。それを見て、僕は思った。 

 「なるほど。僕もバレンタインデーにはたくさんチョコレートをもらえるんだな」

小学生の頃の僕は、顔立ちは十人並みだが、前述の通り、勉強もスポーツも、クラスでは結構できる方だった。背も高かった。だから、 

 「漫画のモテモテ男と僕はそんなに変わらないじゃないか。だったら僕も女にモテるはずだ」

と考えたのである。 

やがて、その考えは思い込みに、そして確信に変わっていった。さらに、

 「漫画みたいにモテてしまうと、バレンタインデーは大変なことになるな。チョコを持ち帰るだけでも一苦労だ」

などと余計な心配まで始めた。とんでもない勘違いだが、僕は本気でそう思っていた。しかし、成績の悪い同級生に「どうしてテストの問題ができないの?」と聞いて回り、授業を妨害しているかのように騒々しくしている男子が、女子からモテるはずがない。 

そんなことを知らない僕は、バレンタインデーの朝、大きな紙袋を持って登校した。むろん、たくさんのチョコレートを入れるためである。校舎の入口ではさすがに少し緊張して、「いくつ入ってるかなあ」と期待しながら下駄箱を開けた。下駄箱はもちろん空っぽだった。 

しかし、僕はまったく落胆しなかった。「ははぁ、女の子たちは僕に直接手渡したいんだろうな」と、さらに勘違いを膨らませて教室に入っていったのだ。我ながらおめでたいものである。もちろん、僕のところにチョコレートを持ってきてくる女の子などいるはずもない。 

6時間目の授業が終わり、下校する時刻になったが、結局、もらったチョコレートはゼロ。それでも愚かな勘違いは止まらず、「なるほど、漫画にも描いてあったように、きっと家の郵便受けにチョコが入っているんだな」と納得する始末だった。 

帰宅して郵便受けを開けると、本当に念願のチョコレートがいくつか入っていた。「よし、やった!」と声に出してしまったが、宛名をよく見ると、僕にではなく、2歳下の弟(無口で穏やかな性格だ)に贈られたものばかりだった。 

弟は、勉強もスポーツもそれほどできなかった。僕より背も低い(2歳下だから当たり前だが)。そんな弟がどうしてこんなにチョコレートをもらえるのか、不思議でならなかった。そしてこのとき、「どうやら今年のバレンタインデーで僕はチョコをもらえないらしい」ということを初めて悟った。 

見苦しいことをしてしまった理由

こうなると、僕も心穏やかではいられない。同時に、大きな疑問が胸の奥に湧き上がってきた。 

 「なぜ女の子たちは僕にチョコレートをくれないのだろう?」

という疑問だ。 

いろいろと思いを巡らせているうちに、バレンタインデーの夜も更けていき、僕は眠りについた。そして翌朝、とんでもない行動に打って出た。登校すると、女子児童を一人一人つかまえて、「どうして俺にチョコレートをくれないの?」と聞いて回ったのである。

女の子たちはみんな驚いて、一瞬、唖然とした後、何か異様なものを見るかのような視線を僕に投げかけてきた。実際、「何を恥ずかしいことを言っているのだろう」と思われていたに違いない。彼女たちの表情には、明らかに蔑みと哀れみと嫌悪があった。その光景は、今もくっきりと脳裏に刻み込まれている。一人一人の表情を克明に覚えているのだ。苦い記憶である。 

しかし、当時の僕は、悔しくてそんなことをしたわけではない。純粋に「自分がバレンタインデーにチョコレートをもらえない理由」を知りたかっただけなのだ。そのときは、女子児童たちにどう思われるかなんて、まったく考えていなかった。 

最近、この話を職場の仲間たち(全員男性)にしたところ、「自分はモテると思っていたのに、バレンタインデーにチョコレートをもらえなかった」という経験は珍しくなかった。でも、女子の同級生一人一人に「なぜ自分にチョコレートをくれないのか?」と理由を問いただして回った男は一人もいなかった。 

さらに詳しく聞くと、「何ももらえず、情けなくて、そう聞いて回りたいと思ったことはある」と答えた人は数人いた。でも皆、口を揃えて「冷静になってみると、やっぱりそんな恐ろしい、見苦しいことはできないと思う」と語る。 

ちなみに、息子も僕と同じく、勉強もスポーツもできる方だ。でもやっぱり、バレンタインデーでチョコレートをもらったことはないという。息子がくれぐれも「どうして僕にチョコレートをくれないの?」と女の子たちに聞いて回りませんように、と僕はただ祈っている。